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あやしく意味不明のダークファンタジー&SF。 一応健全(?)

砂の人

*1459281909*究極のシャープペンシル 0.2mm
これで折れないのだからすごいです

本当に髪の細さ

[asin:B019U2V7WS:detail]

愛用中

砂のひと         



              ・・・・・・・わたしの時間は、流れない  「草の星」より


(1)                      


Rはバスを降りた。夏の陽射しの眩しさに、目を細める。続いた不眠の日々のために、眼の芯の痛みを感じている。
舗装された道は乾き、周囲に人の姿はない。走り去る車の姿さえ・・・古いマンションがひとつだけ見える。
なぜかパステルカラーに塗られている。むらさきを帯びた明るい青・・・放置されたように駐車された車の屋根を、真夏の陽射しが焼いている。


東京近郊のK市。森が多い、と聞いていた。そして病院とサナトリウムも・・・

Rは きのう祖父から送られてきた地図に目を落とす。画用紙に道は簡潔な線で書かれ、なのに林や森のある場所は水彩でその眺めが描かれている。木立のひとつひとつまで、不思議なほど詳細に。

それが祖父の記憶によるものだとすれば、何年前の記憶だろうか・・・もしかすると、何十年も前の祖父の青春のころの・・・終戦直後?
だから、地図として役に立つかはかなりあやしいかもしれない。けれど祖父の手になるその、むしろ絵のような地図を見つめて彼女はほほえんでいた。

その絵地図によると、右手に見える森に向かい歩けばよいらしいのだが・・・。
Rは足をとめ、いま眼にしている風景と、祖父の地図を見比べる


祖父の絵が不思議なほど似すぎている。
とくに森や雑木林はその姿をまったく変えていないように見えている。数十年の時の流れを感じさせないほど・・・
それがむしろ不安ですらあるまでに・・・

真昼に近い陽射しが、腕を灼きはじめているのを感じRは、西に見えている森に向かい 歩きはじめた。



両側の木々はケヤキだろうか。森、というよりも林のように風通しのいい感じなのに、遠くまでは見通すことはできない。
左の茂った生垣の奥に、人家の屋根が見えた。暗い緑色の屋根が、木洩れ日を白く反射して・・・廃屋のようにRには思えた。

いま、Rのバッグの中にある紹介状は、祖父の友人の医師によるものだった。おとといの午後、Rの訪れたその診療所で、続く不眠を訴えた彼女に
「ぼくは睡眠薬を・・・たとえ誘眠剤と呼ばれる軽いものであっても、使うことにあまり感心はしないのです」
と、その医師はいった。
「意外な影響が出ることがあって・・・とくにベンゾジアゼビン系の新薬は・・・」
「・・・・」
「すこし時間がかかってもよいのなら、古くからの友人で、安全な療法を確立している先生が・・・ご紹介しましょうか」
と、その老医師はいった

「・・それに、ひろびろして、とてもよいところですよ・・・」その紹介状を書きながら、「駅からちょっと歩かなくてはなりませんが、まあ、散歩もかねて・・・」医師は彼女に静かに笑いかけた。

たしかに、都心からそれほどの距離ではないはずなのに、その場所はひっそりと静かだった。すこし、寂しいくらいに。
木陰を続く道に、走り抜ける車はまれで、歩く人の姿もない。いま、中学生くらいの制服の少女たちが、自転車でRのかたわらを通り過ぎていった。
「夏休み・・・」
Rは、自身の昔の夏休みのことを思い出そうとして、それを遠くする。
竹藪が見えた。
Rは立ち止まり、祖父の地図を眺める。
この竹藪も、祖父の地図には律儀に描かれていた。Rはすこしほほえむ。もう、あまり遠くはない・・・


けれどやはり、すこしひろびろしすぎていたかもしれない。Rは森の中で道に迷った。サナトリウムのなかを通り、近道をしようとおもったのだ。でも、たぶんそのために迷ったらしい

思い出せば、迷いそうな道も幾つもあった。
去年の落ち葉さえまだ積もり・・・・ずっと奥までつづいて・・・散歩者の道としては最適かもしれなかったけれど

Rは祖父の地図を出して再び眺めた。緑の木洩れ日がその上で揺れ、すこし眩しい。
もう Rには自分の位地がわからなくなっていた


自転車の、まだ若い女性が道の向こうから来たとき、Rはほっとした。

道を尋ねたRに、その女性は黙って左に続く道の奥を指し示し、微笑んだ。


やがて、あるいてゆくRは、ちいさな白い病院を見た。低い生垣に囲まれた庭の、芝生の緑が明るい

Rは中に入っていった。
白衣の看護婦がひとり、玄関に水を撒いている
Rはたずねた
「ここがS診療所でしょうか?」

「・・・そこはここではなくて。間違えるひと、多いんですけどね」と看護婦は笑った。「ほら、そこに小道が見えるでしょう」

気がつけば、そこは道に違いなかった。

「その先をゆくとS診療所にでます。大正の頃に建てられた洋館です。素敵な建物ですよ」
「・・・・」
いまはおばあちゃんのT先生がいるでしょう」
「・・・・」
「今朝、自転車で走って行かれましたから」



・・・・・・ありがとうございます
と言って、林の中の道に向かおうとしたRに、その看護婦はふと思い出したように
「あなたもしかしてT先生のお孫さん?」
とたずねた。
「・・・いえ」
「ごめんなさいね。でも話し方の感じや笑顔がT先生にそっくりなんですもの・・・・ご親戚?」
「いえ、ちがいます」とRは笑った。
「ほんとうに?絶対そうだと思ったんだけどなあ・・・」と、その看護婦はいった。


道は下り坂になっていた。浅い谷間のような。ここは秋になれば、落ち葉で埋まるだろう。道は上りに変わり、木々の間からその洋館は見えた。

Rは立ち止まった。

空を覆う雲にぽっかりとあいた穴からひろがる青空に似た、奇妙な明るさ、そんな光がそのカスタードイエローの洋館を包んでいる。明るく、そしてひっそりと静かだった。

ひとの気配はどこにも感じられなかった

Rはその洋館にあゆみより、周囲を眺めた。庭の芝生が水に濡れて光っている。雨の通りすぎたあとのように。Rは洋館を見上げた。白い窓枠。開け放たれた窓から、紗のカーテンが風にひるがえり・・・・風が、奇妙な感じだった。
つねに向きが変わって・・・Rの周囲を戯れてでもいるように。



入り口のドアは開かれていた。暗い小豆色に塗られた分厚い木の枠。そのドアの大きなガラスが、庭の明るい緑を映している。真鍮のドアの取っ手は、年月のためか複雑な模様を浮かび上がらせ、鈍く光っている

見回しても、インターホンも、呼び鈴も、ドアノッカーも見あたらなかった

・・・・・・家を間違えたのかもしれない
Rがそんなことを思ったとき

「はいっていらっしゃいよー」
という明るい声が家の奥から聞こえた

長く続く暗い廊下は、奥の部屋に射し込む陽射しを映し、水のように白く光っている。Rは自分の靴の音に耳を傾けていた。
つかのま、眠りに傾いたように感じ・・・・


部屋は明るかった。窓から風がやわらかに吹き込んでいる。そこに立つ女性・・・・年齢は七十歳を超えているだろうか・・・ガラスのうつわのオレンジ色の百合をととのえていたが、その表情は逆光でよく見えない。

「うん こんなものかな」
女性は笑顔になったようだった。

Rは、あらためてその部屋を眺める。壁は白にちかい早緑。射し込む光が壁に反射しあい、部屋のなかに明るく満ちて、陰翳を希薄にしている。

「さて・・・と。Rさんね。そのソファーにおかけになって」
その女性はよく磨かれた木製の机にハサミを置き、Rを見つめた。「もうすこしよく お顔をみせて」

その女性はほほえみをうかべ、つぶやくように
・・・・・・・・そうね、そうだったわ
と、いった。

Rと同じソファーに、その女性は腰をおろした。
「よく眠れない、ということでしたけど」
「はい」
「夢は、見る?」
「・・・・」
Rは黙って頷いた
「長い夢?短い夢?」
「短いです。たまにしか見ないのですけど」
「脈絡のない断片?」
「ええ」
「空を飛ぶ夢は見る?」
「最近は、あまり・・・・」
「あれは素敵な夢よね。ひとつの体験だわ・・・・草の斜面を うえにうえにあがってゆく」
「・・・・・」
「でも、ほんとうに疲れているときには見られない夢・・・・あなたが疲れているとしたら、それは未来への不安・・・かな?」
女性はRに笑顔をむけた

「・・・・それもあると思います」
「でもね、悩むな、といっても無理だけど、意外に大丈夫なものなの。わたしは長く生きてきたからそのことを知っている。いまのあなたよりもずっと・・・・でも、眠れないのはつらいわよね。時間が無意味に長く感じられるもの」
「・・・・・」
「お薬も、出そうと思えばだせるけど・・・・うーーん。どうしようかなあ」
その女性は軽く首を傾けている。

やがてRのほうに顔を向けた

「サンドマン・・・・て、ご存じ?欧州の伝説では、子供たちを眠りに誘う妖精のことだけど・・・・」
「・・・・」
「そんな人たちがいるの。声を聴いてるだけで眠くなってくるような・・・・」

Rの視野に、さざめく光がある。窓の外に。それは赤い煉瓦で囲まれたちいさな池だった。周囲にはつややかな濃い緑色の草が、その葉先を揺らし・・・・

女性は話を続けた
「そのひと セラピスト・・・と、いったらよいのかしら。あなたをやすらかな眠りに誘ってくれる」
その高齢の小柄な女医は、紙に鉛筆で何かを書き留めながらいった「おとこのひとだけど・・・嫌?」
「・・・・」
Rはためらい沈黙した
「嫌だったらいつでも言って。ほかの方法を考えるから・・・でもあなたのしてるような心配は、たぶんないわ」


「眠れなくなりそうだったら・・・真夜中でも眠れなかったら・・・ここに電話して。いつでも平気だから」
女医はRに紙片を手渡した
「驚くほど、すぐに来てくれますよ」


「あ・・・それから」
背後からの女性の声にRは振り向いた
「あなたの未来に、悩むほどのことはなにもないわ。すべてのことが時期が来ればわかる」
「・・・・・」
「これはわたしの予言のようなもの。がんばってね」
と、その女性は笑顔になった。



(3)   

いつか夏は過ぎていった。しばらく不眠から遠かったRだが、秋の深まるにつれ、不眠の日が続き、眼の下が人に問われるまで、はっきりした隈を残した。

ある晩、Rは、あの林の奥の診療所の女性が渡した紙片に眼をとめた。
そして、もうあまりためらうことなく、電話を手にした。

Rが電話を置き、ベッドで本を再び手にしたとき、窓の下で自転車の停まるブレーキのかすかな軋みが聞こえた。

Rはカーテンの間から、下の道路を見た。
古めかしい帽子と、暗い灰色の奇妙なかたちのコート。そのひとは自転車を道の脇に寄せ、Rのマンションの玄関のほうに歩きはじめた

・・・・・あのひとではないな
とRは思った。いくらなんでもこんなにはやく来られるわけがない。

でも、そとの廊下を足音が近づいてくる。

そして、インターフォンのチャイムがなった。隣の家の・・・・


鍵がなり、隣のドアの開く音がした。
「・・・・・・ここは」
意外に若い声がきこえた
「ちがうわよ!それは隣よ!」
隣の三十代の女性が叫んでいた。
「こんな夜中に!」
叫びは絶叫に近くなった。
ドアが乱暴に閉じられる音が響き渡った


そして、Rのドアがノックされた。ためらうような間のあと、もう一度。
Rはドアをあけた。

意外に若い男のように見える。
「・・・・・・・ここは、Rさんの?」
「そうです」
「よかった。さっき家を間違ってしまって・・・・」
「きこえてたわ」
その男は曖昧な微笑をうかべ、目をふせた。



その人は円いつばのついた帽子をぬいだ。そして奇妙なかたちのコートを静かにたたんだ


「かわったコートですね」とRはいった
「そう・・・確かに奇妙なかっこうかもしれませんね・・・いまの時代になると」
「・・・・」
「でもぼくは冬のコートはこれしか持っていないものだから・・・これインバネスっていうんです・・・昭和の初期にはあまり珍しくはなかったのですが、いつのまにか時代がかわってしまって」

「あの・・・・上がってもよろしいでしょうか」
と、そのひとは言った。
不思議な声だった。どこか遠くから響いてくるような。同時に、記憶のどこかにある、なつかしい声のような・・・・
「どうぞ」
とRは言った。「でも、速かったですね」
「ええ、自転車で飛んできましたから」
そのひとはまじめな顔でそういった。
「家は近いのですか?」
「遠くはありません・・・」
「そうですよね。こんなに早く来られるのですもの」
「・・・・・」
そのひとは曖昧な微笑をうかべた。


                             (4)

「あの・・・安眠のためにはお布団はすこし重めのほうがよいようです。被保護感があるというか」
「・・・ヒホゴカン」
「護られているという感じですね。この季節、厚いお布団はすこし暑いですけども・・・・」

その人はそっとRのうえに布団を置き、足元の毛布の乱れを整えた
そして、ベッドの脇に椅子をよせ、しずかに腰をおろした

「さて、と・・・手を・・だしてください」と、そのひとは いった。「ぼくの手首のあたりにつかまるようにして・・・」

白く、意外に細い手首。その手に触れたとき
「・・・・」Rは息をのんだ

水のように冷たい手だった。死体のようにでもなく・・・でも氷のように、でもなかったけれど。

「目を閉じて・・・」と、そのひとは いった。その人の手はやわらかく、冷たかった。
「・・・・・」
「冷たいでしょう。ぼくの手・・・」
「ええ・・・」
「・・・・ほんとうにどうしてでしょうね、なぜでしょうね?」

薄闇のなかで、その人はかすかに笑ったようだった


その人の手はいつまでも冷たいままだった。Rの体温を受けつけないかのように。かたくなに拒むかのように

ただ脈だけが、ゆっくりうちつづけている。

壁の時計が午後11時をうち、さらに30分が過ぎてもその手は、なお冷たいままだった

それでも、かすかにその手はあたたまりはじめているのだろうか。Rの体温によって・・・

「海のおはなしをしましょうか」
とその人は言った。
「海のうえに、おおきな舟が浮かんでいます。そうですね 南太平洋に住む人たちのふねを思い浮かべてください。ほら、転覆しないようにアウトリガーというものが左右に出ているでしょう。あれのずっと大きなものです。両側に帆を巨大な鳥の翼のように拡げていて」

「風はないのです。海も静かで、澄んでいます。どこが空気と水の境なのかわからないくらいに。舟のひとたちはみな、眠っています・・・・・」
・・・その語る物語は単調で、退屈をきわめていたけれど、その声は不思議な声だった。やわらかく くぐもりながら、Rの奥深くにとどき、あたたかく

・・・・なのに、この人の手は、なぜいつまでも冷たいままなのだろう

Rの意識はほどけてゆき、いつしか深い眠りにおちていった。






窓を開ける気配がした。朝の風が、ゆっくりRのうえを過ぎてゆく。かすかに、雨の気配が・・・・



「かんたんですが、朝食を用意しましたよ」
すこし離れたところから、そのひとの声が聞こえた。

・・・・・・・夢ではなかったのか

と思い、Rはその人のほうに顔を向けた。逆光のなかに立っているので、顔はよく見えない

まだ、Rは眠かった
「せっかくだから・・・もうすこし眠らせて」とRは言った。
「・・・・・・」
声もなくそのひとは笑ったようだった
「いいですよ。もうすこしここにいます。本を一冊かしてくださいね」
とその人はいった。





ふたたびRが目覚めたとき、その人のすがたはなかった。Rはからだを起こし、意識の覚めてゆくのを待っている。

窓からの陽射しはベッドを斜めに切り分け‥‥
緑のカバーは陽射しに、まばゆいばかりの黄色にそまり・・・・Rは目を細めている。

窓の下で、かすかな音がした。立ち上がって見ると、自転車で道を遠ざかってゆくその人の背中が見えた。

空は曇っていた。暗い空ではなかったけれど。
その光は風景から明暗をうばい、どこかとても平坦なものに見せている。Rは、道を遠くなってゆくそのひとの姿から目を離すことができなかった。醒めてからも見つづけているゆめのようで、同時に過度に現実のようで‥‥
あの手の冷たさがひどくなまなましく残っていた

‥‥だれなのだろう、あのひとは
という疑問を自分がはじめていだいたことに、Rはすこし驚いていた


                     (5)

4階の蔵書庫の窓から、初冬の陽射しがずいぶん奥までとどいているのを、ふと足をとめてRはみつめた。それは奥の方にひろがる蛍光灯の白い光を奪い‥‥窓の外の空の青は、かすかに黄色をおびて見え、どこかに昼の、影のように淡い月がうかんでいるようにおもえた。
窓まであゆみより、その昼の月を探そうとはおもわなかったけれど。
ふいに、うでにかかえている本の重みが感じられた。これを請求したひとが下の階でまっているのだった。
Rはふたたび歩き出した。
書庫は何列にもわたって、奥深く続いている。そのひっそりとした空間に、そのひとがうつむき本を読んでいる‥‥その姿が一瞬Rのこころのなかにうかび、そして消えていった。

Rは階段を降りてゆく。途中の壁に、ちいさな絵が掛けられている。それをはじめてみるもののようにRは見た。水辺の絵‥‥遠いどこかの、そして、春の‥‥

われにかえるようにRはあゆみをはやめた



季節はゆるやかにふゆに傾いていった。ときどきとどこおる時間の流れが、Rに風景を眺めさせる。思い出そうとして思い出せないなにか、に、かすかな焦燥を感じながら

街路樹は葉を降らしつづけて、朽葉は風に足音ににた音を立てた。振り返ろうとしてRは思いとどまる。そこにだれを見ようとしているのかに気がついたから。



時計は午後9時をすこし過ぎたばかりだった。ためらい、目をつぶるようにRは電話を手にした。
番号を最後まで押し終えないうちに、窓の外で自転車の停まる音がきこえた。

‥‥まさか、とRはおもった。



「なにを驚いているんです?」と、そのひとは笑った
「だって、まだ電話をかけおえていなかったのに」
「でも、ぼくを呼んでくれたんでしょ。そしてぼくはここにきたのだから、いいのではありませんか?」
その口調には、さまざまのものが含まれているようだった。つめたくはない揶揄。喜びのようなもの。そして淡い疲労感。

そのひとは包みを手にしていた。
「それはなに?」
「枕ですよ。あなたのまくらはすこしちいさいようだから」



その深い青の大きな枕は、太陽の匂いがした。
「いいにおい」
「屋根の上に干しておきましたからね」
「屋根の上?」
「ええ‥‥屋根の上に上ってみわたすと、この街の木々もずいぶんのびているのがわかります」
「あなたはどこに暮らしているの」
「ここからはそれほど遠くありません。古い大きな家の3階の部屋を借りて‥‥手を」
と、そのひとはいった。

その手は冷たいままだった



ふとめざめてRはかたわらに腰をおろしているそのひとの横顔を見た。
そのひとは顔を窓に向け、頬杖をつき外をみつめている。街路灯が白い光を投げている外の闇‥‥
あるいは、なにも見ていないのかもしれなかった。
「なにをみているの?」
「‥‥」
そのひとはすこしおどろいたようにRをみた。
「なにも‥‥いえ、なにかを見ようと‥‥思い出そうと‥‥いくつか見えかけていたものが」
「邪魔を‥‥した?」
「いえ‥‥」
と、そのひとは静かにわらった。


「なにを思い出そうとしているの」とRはたずねた
「たぶん、とてもたいせつなことなんです。でも‥‥暗い灰色の靄のさきにあって,どうしても見えてこない何かがある‥‥考えていたのは、そのことをぼくは本当に思い出したいのか、ということでした」
「‥‥」
「なにかを、ぼくは待っていたらしいのです。でも、それがなになのかを、いつのまにか忘れてしまっていた‥‥いつのまにか長い時間がたっていて‥‥」
砂のひとは窓の外に視線を向けた。
「光は、たぶん昔のままなのでしょう。風景を満たす光はなにひとつ変わることはない。過ぎてゆくのは、街の眺めと、人々だった」ひとつの風景を思い出すことが出来たら、ぼくはすべてをおもいだすことができるかもしれない」
「‥‥」
「いまおもいだしていたのはね、夕暮れの乾いた街の風景。みせのシャッターは全部閉じていて、人の姿はなく‥‥」
「それがあなたの思い出したかったもの‥‥」
「まさか」
と、そのひとは笑った「もうすこしうるおいのある風景のはずですよ‥‥でも」
「‥‥」
「不思議だな。あなたと話していると、そのたいせつなものが思い出せそうな気がするんです」





「自分の・・・幸せ?」
砂の人は驚いたような顔をしてRを見つめた。
「考えたことないの?」
「・・・・・・」
砂の人はすこしうつむくようにして、考えていた。そして顔をあげ、Rをみつめた。
「あったかもしれない・・・遠い昔には・・・でも」
ぼくにも、ひととして生きていた時期があったのです。でも、その時期に蒔かれた不信、の根はもうどうしようもないようにひろがって・・・ぼくの魂を腐蝕させていった
それでもぼくは待ち続けていたけれど、自分のなかのかたくなな何かが、ひえたままのこころが、罪を重ねていった。
この手は

そのひとは自分の手を見た。

もとめることのない冷たいこころの象徴なのでしょう


そのひとはRの目を見た
あのときも、ぼくは愛せなかったのです。ひとつの存在を・・・救うことを望みながら、そのようにふるまいながら、でもけっして求めようとはしなかった。
いくつかの手によって引き離されていったときにも、ぼくは冷静なままでいられた。
そして・・・ぼくは生きることをやめました。

・・・そう、この肉体は生きている、でも
あの日から、ではないのです。ぼくは求めることができなくなっていた。。いままで、このながいあいだ。でも

その子が生きていれば、あなたくらいの年齢になって・・・
「いま、あなたの見てきたものが‥‥すこしだけ見えた‥‥

「目を閉じて」

「あなたの夢のなかにはいります・・・・静かに呼吸を深く」
「あなたは何・・・」

……ぼくたちの正体?…
「死の天使 というひともいるようです。いくつもの結果からそう呼ばれてもしかたはないのですが・・・」

この灰色の羽は、喪われてゆくものの象徴。そして滅びてゆく時間の・・・すべてが喪われてゆくことの・・・すべてがつかのまであることの



手がRの額に触れた
「あ・・・」
砂のひとは小さく叫んだ
     ・・・・・そうだったのか・・・・でも、もう・・・・

「さいごに、あなたに出会えた。もう思い残すことはないようです」
「これでここに来るのは最後」
「ええ。・・・・でも、あなたにはまた・・・」
その人は静かに笑った
「ありがとう・・・・」
ドアがそっと閉じられた。


Rは不眠からは解放されたようだった。冬は深くなり、新しい年をむかえた。単調だけれど安定した日常をRはくりかえし・・・ただ、街のあちこちを目的もなく歩くようになった。

信号に立ち止まり、向こうを歩いてゆく若い女性を眺める。Rと同じとしごろの。

・・・・凍っていたのは、わたしも・・・

そのひとの顔は、すでに思い出せなくなっていた。かわりに、




Rは走り寄った。
そのゆっくりと大きな羽ばたきは、空気のふるえとしてRにつたわってきた。音は聞こえなかった。

砂の人は空に吊されて、藻掻いているように見えた・・・あるいはどこまでも墜ちつづけているようにも・・
「・・・どこにも・・・・どこにもぼくの場所はない」砂の人の声が聞こえた。

「ちがう」と、Rは叫んでいた。
その声に打たれたように、砂のひとのからだから力が抜けていった。その黒い翼からも。

落ちはじめた。音もなく、ひどくゆっくりと・・・・Rが駆けよろうとしたそのとき、なにか見えないものの手が、砂のひとのからだを抱きとめたようだった。
そして砂のひとのからだは高く小さく、灰色の雲のなかに吸われるように消えていった。

泣いてRはめざめた。
さしこむ静かな光。休日の朝。

胸の芯に感じた痛みは、やがて淡く消えていった。

その日から、砂の人 は来なくなった。こころに呼びかけても。


たしかにもう、Rの不眠はとおいものになっていた。目を閉じ、うかぶ想念をみつめているうちに、いつもいつしか眠りにひきこまれていった。
その砂の人はRに、森の眺めを残していった。ところどころひらけ、草の丘がひろがり、それは鮮やかで、どこかにかならずある場所に思われたけれど。でももう、Rの手をひいてそこにみちびいてくれる砂の人、の姿はもうなかった。



その年の冬の日


……忘れないで。そのひとの約束は、いまも続いているということを。

そして その砂の人は雑踏にまぎれ、見えなくなった。
Rは、月のない冬の夜空を見上げた
みえない階段を静かにのぼってゆくその砂のひとの姿を探して。
けれども、そのすがたはどこにも見えなかった







__________________________epilogue________________


そして、とても長い月日が 過ぎていった。いつか世紀もそのなかばを越え、Rは病院の、白く清潔なかべに囲まれてベッドに横たわっていた。
初夏の夜が明けようとしていた。
時計は午前四時をすこし過ぎたばかり、空は見るうちに明るくなって、やまいの疲れがRの首をわずかにしか傾けさせなかったけれど、病室に人が入ってきた。

若い医師だろうか。彼は東側の窓を静かに開いた。

樹々のかおる、すこし冷たいけれど柔らかな風が・・・

「風がお好きだったでしょう・・・」
その声を、Rはこころのかたすみにかすかに記憶していたようだった。

・・・・でも、まさか

その白い男の姿はRのベッドのかたわらに歩みよってきた。そしてすこしよろめいてベッドの縁を掴んだ

「このからだも久しぶりなので感覚がもどらなくて」男は笑った「でも・・・」

「ぼくのことを覚えていますか」
「・・・まさか」
「でも、そのまさかなんです。あなたを迎えに来たんです。さあ、立って・・・」
「もう、わたしはたてないの」
「そこに脱ぎ捨てた体ではね・・・」
男の手が伸び、Rの手を握った
不意に何かが解き放たれ、Rは立ち上がった。
「ふりむかないで。さあ、こっちにきてください。窓から出ましょう」

ふたりは、開け放たれた窓を乗り越え、病院の、まだ誰もいない中庭に立った。

「あなたはその年齢を選んだのですね・・・15才ですか」
と、そのひとは笑った。
Rは自分の姿を見た。白く風に揺れる布にからだをつつまれ・・・
「ぼくは13才のからだなのに・・・こまったな。でも、もうぼくのほうが背は高いですよ」
その人は腕をひろげてRに近づき、包みこむようにRを抱いた。
「ずっとまえからこうしたかった・・・あのわかれの日にも・・・」
その人の背に白いはねのあることにRは気づいた
「これは翼?」
「あなたにもありますよ」
その人の手がRの翼に触れた感触があった。むず痒いような感触に、Rは笑った
「でも、これで飛べるの?」
「どちらかというと象徴ですね。いまのぼくたちの体もひとつの象徴ですが・・・そろそろひとたちの起きてくる頃です、いかなくては」

風が起きた、ように感じたけれど、それはRたちの翼が風をはらみ・・・そして体が浮いた。

足元に、病院の白い建物が見えた

「これは夢?」
「夢ではありません。さめることのない夢にも似ているけれど」

「ここからどこへ・・・」
「どこにでもいけますよ。いつの時代でも、たとえほかの星でも・・・でもできたら」
「なに?」
「ぼくは行きたかったのです。いつかあなたが話したことのある 5月の午後、上っていった川の、あの水辺に・・・」
「あそこもすっかりかわってしまった・・・」
「まだあなたは・・・」
そのひとは笑った「時の流れの意識に囚われているようですね。それもしかたないか。まだこの状態に慣れていませんものね。でもすべてはあのときのままに保存されているのです」
「・・・・・」
「その日のことを思い出してください。ぼくも手を貸しますから」

Rは目を閉じた。
不意に、足が石の道を踏んだ。
「ここは?」
「そう、そこなんです」
まばゆい初夏の陽ざし。若葉。縫うようにちいさな蝶が・・・水の音が聞こえてくる

「あの雪の日、あなたが飛び抜けていった灰色の鳥に気をとられて、ぼくと つないでいた手を離したものだから」
「・・・・」
「ぼくは先に墜ちていった・・・わずかの差に見えたけれど、そこでは意外に長い月日が過ぎていて」
「・・・・」
「ずっと待っていたんです。でもあまりにも長い間だから、ぼくはいろいろなことを忘れてしまっていた」
「・・・・」
「もうすこしのあいだは、この手をつないでいてください・・・・そしてそう、もうじきあの日のあなたに会えますよ。覚えていますか・・・」
「・・・・」
「ふしぎな風があの日のあなたに触れて、あなたの心を明るくしたことを・・・・それは、ぼくたちだったんです」
*1459281909*究極のシャープペンシル 0.2mm
これで折れないのだからすごいです

本当に髪の細さ

[asin:B019U2V7WS:detail]

愛用中

砂のひと         



              ・・・・・・・わたしの時間は、流れない  「草の星」より


(1)                      


Rはバスを降りた。夏の陽射しの眩しさに、目を細める。続いた不眠の日々のために、眼の芯の痛みを感じている。
舗装された道は乾き、周囲に人の姿はない。走り去る車の姿さえ・・・古いマンションがひとつだけ見える。
なぜかパステルカラーに塗られている。むらさきを帯びた明るい青・・・放置されたように駐車された車の屋根を、真夏の陽射しが焼いている。


東京近郊のK市。森が多い、と聞いていた。そして病院とサナトリウムも・・・

Rは きのう祖父から送られてきた地図に目を落とす。画用紙に道は簡潔な線で書かれ、なのに林や森のある場所は水彩でその眺めが描かれている。木立のひとつひとつまで、不思議なほど詳細に。

それが祖父の記憶によるものだとすれば、何年前の記憶だろうか・・・もしかすると、何十年も前の祖父の青春のころの・・・終戦直後?
だから、地図として役に立つかはかなりあやしいかもしれない。けれど祖父の手になるその、むしろ絵のような地図を見つめて彼女はほほえんでいた。

その絵地図によると、右手に見える森に向かい歩けばよいらしいのだが・・・。
Rは足をとめ、いま眼にしている風景と、祖父の地図を見比べる


祖父の絵が不思議なほど似すぎている。
とくに森や雑木林はその姿をまったく変えていないように見えている。数十年の時の流れを感じさせないほど・・・
それがむしろ不安ですらあるまでに・・・

真昼に近い陽射しが、腕を灼きはじめているのを感じRは、西に見えている森に向かい 歩きはじめた。



両側の木々はケヤキだろうか。森、というよりも林のように風通しのいい感じなのに、遠くまでは見通すことはできない。
左の茂った生垣の奥に、人家の屋根が見えた。暗い緑色の屋根が、木洩れ日を白く反射して・・・廃屋のようにRには思えた。

いま、Rのバッグの中にある紹介状は、祖父の友人の医師によるものだった。おとといの午後、Rの訪れたその診療所で、続く不眠を訴えた彼女に
「ぼくは睡眠薬を・・・たとえ誘眠剤と呼ばれる軽いものであっても、使うことにあまり感心はしないのです」
と、その医師はいった。
「意外な影響が出ることがあって・・・とくにベンゾジアゼビン系の新薬は・・・」
「・・・・」
「すこし時間がかかってもよいのなら、古くからの友人で、安全な療法を確立している先生が・・・ご紹介しましょうか」
と、その老医師はいった

「・・それに、ひろびろして、とてもよいところですよ・・・」その紹介状を書きながら、「駅からちょっと歩かなくてはなりませんが、まあ、散歩もかねて・・・」医師は彼女に静かに笑いかけた。

たしかに、都心からそれほどの距離ではないはずなのに、その場所はひっそりと静かだった。すこし、寂しいくらいに。
木陰を続く道に、走り抜ける車はまれで、歩く人の姿もない。いま、中学生くらいの制服の少女たちが、自転車でRのかたわらを通り過ぎていった。
「夏休み・・・」
Rは、自身の昔の夏休みのことを思い出そうとして、それを遠くする。
竹藪が見えた。
Rは立ち止まり、祖父の地図を眺める。
この竹藪も、祖父の地図には律儀に描かれていた。Rはすこしほほえむ。もう、あまり遠くはない・・・


けれどやはり、すこしひろびろしすぎていたかもしれない。Rは森の中で道に迷った。サナトリウムのなかを通り、近道をしようとおもったのだ。でも、たぶんそのために迷ったらしい

思い出せば、迷いそうな道も幾つもあった。
去年の落ち葉さえまだ積もり・・・・ずっと奥までつづいて・・・散歩者の道としては最適かもしれなかったけれど

Rは祖父の地図を出して再び眺めた。緑の木洩れ日がその上で揺れ、すこし眩しい。
もう Rには自分の位地がわからなくなっていた


自転車の、まだ若い女性が道の向こうから来たとき、Rはほっとした。

道を尋ねたRに、その女性は黙って左に続く道の奥を指し示し、微笑んだ。


やがて、あるいてゆくRは、ちいさな白い病院を見た。低い生垣に囲まれた庭の、芝生の緑が明るい

Rは中に入っていった。
白衣の看護婦がひとり、玄関に水を撒いている
Rはたずねた
「ここがS診療所でしょうか?」

「・・・そこはここではなくて。間違えるひと、多いんですけどね」と看護婦は笑った。「ほら、そこに小道が見えるでしょう」

気がつけば、そこは道に違いなかった。

「その先をゆくとS診療所にでます。大正の頃に建てられた洋館です。素敵な建物ですよ」
「・・・・」
いまはおばあちゃんのT先生がいるでしょう」
「・・・・」
「今朝、自転車で走って行かれましたから」



・・・・・・ありがとうございます
と言って、林の中の道に向かおうとしたRに、その看護婦はふと思い出したように
「あなたもしかしてT先生のお孫さん?」
とたずねた。
「・・・いえ」
「ごめんなさいね。でも話し方の感じや笑顔がT先生にそっくりなんですもの・・・・ご親戚?」
「いえ、ちがいます」とRは笑った。
「ほんとうに?絶対そうだと思ったんだけどなあ・・・」と、その看護婦はいった。


道は下り坂になっていた。浅い谷間のような。ここは秋になれば、落ち葉で埋まるだろう。道は上りに変わり、木々の間からその洋館は見えた。

Rは立ち止まった。

空を覆う雲にぽっかりとあいた穴からひろがる青空に似た、奇妙な明るさ、そんな光がそのカスタードイエローの洋館を包んでいる。明るく、そしてひっそりと静かだった。

ひとの気配はどこにも感じられなかった

Rはその洋館にあゆみより、周囲を眺めた。庭の芝生が水に濡れて光っている。雨の通りすぎたあとのように。Rは洋館を見上げた。白い窓枠。開け放たれた窓から、紗のカーテンが風にひるがえり・・・・風が、奇妙な感じだった。
つねに向きが変わって・・・Rの周囲を戯れてでもいるように。



入り口のドアは開かれていた。暗い小豆色に塗られた分厚い木の枠。そのドアの大きなガラスが、庭の明るい緑を映している。真鍮のドアの取っ手は、年月のためか複雑な模様を浮かび上がらせ、鈍く光っている

見回しても、インターホンも、呼び鈴も、ドアノッカーも見あたらなかった

・・・・・・家を間違えたのかもしれない
Rがそんなことを思ったとき

「はいっていらっしゃいよー」
という明るい声が家の奥から聞こえた

長く続く暗い廊下は、奥の部屋に射し込む陽射しを映し、水のように白く光っている。Rは自分の靴の音に耳を傾けていた。
つかのま、眠りに傾いたように感じ・・・・


部屋は明るかった。窓から風がやわらかに吹き込んでいる。そこに立つ女性・・・・年齢は七十歳を超えているだろうか・・・ガラスのうつわのオレンジ色の百合をととのえていたが、その表情は逆光でよく見えない。

「うん こんなものかな」
女性は笑顔になったようだった。

Rは、あらためてその部屋を眺める。壁は白にちかい早緑。射し込む光が壁に反射しあい、部屋のなかに明るく満ちて、陰翳を希薄にしている。

「さて・・・と。Rさんね。そのソファーにおかけになって」
その女性はよく磨かれた木製の机にハサミを置き、Rを見つめた。「もうすこしよく お顔をみせて」

その女性はほほえみをうかべ、つぶやくように
・・・・・・・・そうね、そうだったわ
と、いった。

Rと同じソファーに、その女性は腰をおろした。
「よく眠れない、ということでしたけど」
「はい」
「夢は、見る?」
「・・・・」
Rは黙って頷いた
「長い夢?短い夢?」
「短いです。たまにしか見ないのですけど」
「脈絡のない断片?」
「ええ」
「空を飛ぶ夢は見る?」
「最近は、あまり・・・・」
「あれは素敵な夢よね。ひとつの体験だわ・・・・草の斜面を うえにうえにあがってゆく」
「・・・・・」
「でも、ほんとうに疲れているときには見られない夢・・・・あなたが疲れているとしたら、それは未来への不安・・・かな?」
女性はRに笑顔をむけた

「・・・・それもあると思います」
「でもね、悩むな、といっても無理だけど、意外に大丈夫なものなの。わたしは長く生きてきたからそのことを知っている。いまのあなたよりもずっと・・・・でも、眠れないのはつらいわよね。時間が無意味に長く感じられるもの」
「・・・・・」
「お薬も、出そうと思えばだせるけど・・・・うーーん。どうしようかなあ」
その女性は軽く首を傾けている。

やがてRのほうに顔を向けた

「サンドマン・・・・て、ご存じ?欧州の伝説では、子供たちを眠りに誘う妖精のことだけど・・・・」
「・・・・」
「そんな人たちがいるの。声を聴いてるだけで眠くなってくるような・・・・」

Rの視野に、さざめく光がある。窓の外に。それは赤い煉瓦で囲まれたちいさな池だった。周囲にはつややかな濃い緑色の草が、その葉先を揺らし・・・・

女性は話を続けた
「そのひと セラピスト・・・と、いったらよいのかしら。あなたをやすらかな眠りに誘ってくれる」
その高齢の小柄な女医は、紙に鉛筆で何かを書き留めながらいった「おとこのひとだけど・・・嫌?」
「・・・・」
Rはためらい沈黙した
「嫌だったらいつでも言って。ほかの方法を考えるから・・・でもあなたのしてるような心配は、たぶんないわ」


「眠れなくなりそうだったら・・・真夜中でも眠れなかったら・・・ここに電話して。いつでも平気だから」
女医はRに紙片を手渡した
「驚くほど、すぐに来てくれますよ」


「あ・・・それから」
背後からの女性の声にRは振り向いた
「あなたの未来に、悩むほどのことはなにもないわ。すべてのことが時期が来ればわかる」
「・・・・・」
「これはわたしの予言のようなもの。がんばってね」
と、その女性は笑顔になった。



(3)   

いつか夏は過ぎていった。しばらく不眠から遠かったRだが、秋の深まるにつれ、不眠の日が続き、眼の下が人に問われるまで、はっきりした隈を残した。

ある晩、Rは、あの林の奥の診療所の女性が渡した紙片に眼をとめた。
そして、もうあまりためらうことなく、電話を手にした。

Rが電話を置き、ベッドで本を再び手にしたとき、窓の下で自転車の停まるブレーキのかすかな軋みが聞こえた。

Rはカーテンの間から、下の道路を見た。
古めかしい帽子と、暗い灰色の奇妙なかたちのコート。そのひとは自転車を道の脇に寄せ、Rのマンションの玄関のほうに歩きはじめた

・・・・・あのひとではないな
とRは思った。いくらなんでもこんなにはやく来られるわけがない。

でも、そとの廊下を足音が近づいてくる。

そして、インターフォンのチャイムがなった。隣の家の・・・・


鍵がなり、隣のドアの開く音がした。
「・・・・・・ここは」
意外に若い声がきこえた
「ちがうわよ!それは隣よ!」
隣の三十代の女性が叫んでいた。
「こんな夜中に!」
叫びは絶叫に近くなった。
ドアが乱暴に閉じられる音が響き渡った


そして、Rのドアがノックされた。ためらうような間のあと、もう一度。
Rはドアをあけた。

意外に若い男のように見える。
「・・・・・・・ここは、Rさんの?」
「そうです」
「よかった。さっき家を間違ってしまって・・・・」
「きこえてたわ」
その男は曖昧な微笑をうかべ、目をふせた。



その人は円いつばのついた帽子をぬいだ。そして奇妙なかたちのコートを静かにたたんだ


「かわったコートですね」とRはいった
「そう・・・確かに奇妙なかっこうかもしれませんね・・・いまの時代になると」
「・・・・」
「でもぼくは冬のコートはこれしか持っていないものだから・・・これインバネスっていうんです・・・昭和の初期にはあまり珍しくはなかったのですが、いつのまにか時代がかわってしまって」

「あの・・・・上がってもよろしいでしょうか」
と、そのひとは言った。
不思議な声だった。どこか遠くから響いてくるような。同時に、記憶のどこかにある、なつかしい声のような・・・・
「どうぞ」
とRは言った。「でも、速かったですね」
「ええ、自転車で飛んできましたから」
そのひとはまじめな顔でそういった。
「家は近いのですか?」
「遠くはありません・・・」
「そうですよね。こんなに早く来られるのですもの」
「・・・・・」
そのひとは曖昧な微笑をうかべた。


                             (4)

「あの・・・安眠のためにはお布団はすこし重めのほうがよいようです。被保護感があるというか」
「・・・ヒホゴカン」
「護られているという感じですね。この季節、厚いお布団はすこし暑いですけども・・・・」

その人はそっとRのうえに布団を置き、足元の毛布の乱れを整えた
そして、ベッドの脇に椅子をよせ、しずかに腰をおろした

「さて、と・・・手を・・だしてください」と、そのひとは いった。「ぼくの手首のあたりにつかまるようにして・・・」

白く、意外に細い手首。その手に触れたとき
「・・・・」Rは息をのんだ

水のように冷たい手だった。死体のようにでもなく・・・でも氷のように、でもなかったけれど。

「目を閉じて・・・」と、そのひとは いった。その人の手はやわらかく、冷たかった。
「・・・・・」
「冷たいでしょう。ぼくの手・・・」
「ええ・・・」
「・・・・ほんとうにどうしてでしょうね、なぜでしょうね?」

薄闇のなかで、その人はかすかに笑ったようだった


その人の手はいつまでも冷たいままだった。Rの体温を受けつけないかのように。かたくなに拒むかのように

ただ脈だけが、ゆっくりうちつづけている。

壁の時計が午後11時をうち、さらに30分が過ぎてもその手は、なお冷たいままだった

それでも、かすかにその手はあたたまりはじめているのだろうか。Rの体温によって・・・

「海のおはなしをしましょうか」
とその人は言った。
「海のうえに、おおきな舟が浮かんでいます。そうですね 南太平洋に住む人たちのふねを思い浮かべてください。ほら、転覆しないようにアウトリガーというものが左右に出ているでしょう。あれのずっと大きなものです。両側に帆を巨大な鳥の翼のように拡げていて」

「風はないのです。海も静かで、澄んでいます。どこが空気と水の境なのかわからないくらいに。舟のひとたちはみな、眠っています・・・・・」
・・・その語る物語は単調で、退屈をきわめていたけれど、その声は不思議な声だった。やわらかく くぐもりながら、Rの奥深くにとどき、あたたかく

・・・・なのに、この人の手は、なぜいつまでも冷たいままなのだろう

Rの意識はほどけてゆき、いつしか深い眠りにおちていった。






窓を開ける気配がした。朝の風が、ゆっくりRのうえを過ぎてゆく。かすかに、雨の気配が・・・・



「かんたんですが、朝食を用意しましたよ」
すこし離れたところから、そのひとの声が聞こえた。

・・・・・・・夢ではなかったのか

と思い、Rはその人のほうに顔を向けた。逆光のなかに立っているので、顔はよく見えない

まだ、Rは眠かった
「せっかくだから・・・もうすこし眠らせて」とRは言った。
「・・・・・・」
声もなくそのひとは笑ったようだった
「いいですよ。もうすこしここにいます。本を一冊かしてくださいね」
とその人はいった。





ふたたびRが目覚めたとき、その人のすがたはなかった。Rはからだを起こし、意識の覚めてゆくのを待っている。

窓からの陽射しはベッドを斜めに切り分け‥‥
緑のカバーは陽射しに、まばゆいばかりの黄色にそまり・・・・Rは目を細めている。

窓の下で、かすかな音がした。立ち上がって見ると、自転車で道を遠ざかってゆくその人の背中が見えた。

空は曇っていた。暗い空ではなかったけれど。
その光は風景から明暗をうばい、どこかとても平坦なものに見せている。Rは、道を遠くなってゆくそのひとの姿から目を離すことができなかった。醒めてからも見つづけているゆめのようで、同時に過度に現実のようで‥‥
あの手の冷たさがひどくなまなましく残っていた

‥‥だれなのだろう、あのひとは
という疑問を自分がはじめていだいたことに、Rはすこし驚いていた


                     (5)

4階の蔵書庫の窓から、初冬の陽射しがずいぶん奥までとどいているのを、ふと足をとめてRはみつめた。それは奥の方にひろがる蛍光灯の白い光を奪い‥‥窓の外の空の青は、かすかに黄色をおびて見え、どこかに昼の、影のように淡い月がうかんでいるようにおもえた。
窓まであゆみより、その昼の月を探そうとはおもわなかったけれど。
ふいに、うでにかかえている本の重みが感じられた。これを請求したひとが下の階でまっているのだった。
Rはふたたび歩き出した。
書庫は何列にもわたって、奥深く続いている。そのひっそりとした空間に、そのひとがうつむき本を読んでいる‥‥その姿が一瞬Rのこころのなかにうかび、そして消えていった。

Rは階段を降りてゆく。途中の壁に、ちいさな絵が掛けられている。それをはじめてみるもののようにRは見た。水辺の絵‥‥遠いどこかの、そして、春の‥‥

われにかえるようにRはあゆみをはやめた



季節はゆるやかにふゆに傾いていった。ときどきとどこおる時間の流れが、Rに風景を眺めさせる。思い出そうとして思い出せないなにか、に、かすかな焦燥を感じながら

街路樹は葉を降らしつづけて、朽葉は風に足音ににた音を立てた。振り返ろうとしてRは思いとどまる。そこにだれを見ようとしているのかに気がついたから。



時計は午後9時をすこし過ぎたばかりだった。ためらい、目をつぶるようにRは電話を手にした。
番号を最後まで押し終えないうちに、窓の外で自転車の停まる音がきこえた。

‥‥まさか、とRはおもった。



「なにを驚いているんです?」と、そのひとは笑った
「だって、まだ電話をかけおえていなかったのに」
「でも、ぼくを呼んでくれたんでしょ。そしてぼくはここにきたのだから、いいのではありませんか?」
その口調には、さまざまのものが含まれているようだった。つめたくはない揶揄。喜びのようなもの。そして淡い疲労感。

そのひとは包みを手にしていた。
「それはなに?」
「枕ですよ。あなたのまくらはすこしちいさいようだから」



その深い青の大きな枕は、太陽の匂いがした。
「いいにおい」
「屋根の上に干しておきましたからね」
「屋根の上?」
「ええ‥‥屋根の上に上ってみわたすと、この街の木々もずいぶんのびているのがわかります」
「あなたはどこに暮らしているの」
「ここからはそれほど遠くありません。古い大きな家の3階の部屋を借りて‥‥手を」
と、そのひとはいった。

その手は冷たいままだった



ふとめざめてRはかたわらに腰をおろしているそのひとの横顔を見た。
そのひとは顔を窓に向け、頬杖をつき外をみつめている。街路灯が白い光を投げている外の闇‥‥
あるいは、なにも見ていないのかもしれなかった。
「なにをみているの?」
「‥‥」
そのひとはすこしおどろいたようにRをみた。
「なにも‥‥いえ、なにかを見ようと‥‥思い出そうと‥‥いくつか見えかけていたものが」
「邪魔を‥‥した?」
「いえ‥‥」
と、そのひとは静かにわらった。


「なにを思い出そうとしているの」とRはたずねた
「たぶん、とてもたいせつなことなんです。でも‥‥暗い灰色の靄のさきにあって,どうしても見えてこない何かがある‥‥考えていたのは、そのことをぼくは本当に思い出したいのか、ということでした」
「‥‥」
「なにかを、ぼくは待っていたらしいのです。でも、それがなになのかを、いつのまにか忘れてしまっていた‥‥いつのまにか長い時間がたっていて‥‥」
砂のひとは窓の外に視線を向けた。
「光は、たぶん昔のままなのでしょう。風景を満たす光はなにひとつ変わることはない。過ぎてゆくのは、街の眺めと、人々だった」ひとつの風景を思い出すことが出来たら、ぼくはすべてをおもいだすことができるかもしれない」
「‥‥」
「いまおもいだしていたのはね、夕暮れの乾いた街の風景。みせのシャッターは全部閉じていて、人の姿はなく‥‥」
「それがあなたの思い出したかったもの‥‥」
「まさか」
と、そのひとは笑った「もうすこしうるおいのある風景のはずですよ‥‥でも」
「‥‥」
「不思議だな。あなたと話していると、そのたいせつなものが思い出せそうな気がするんです」





「自分の・・・幸せ?」
砂の人は驚いたような顔をしてRを見つめた。
「考えたことないの?」
「・・・・・・」
砂の人はすこしうつむくようにして、考えていた。そして顔をあげ、Rをみつめた。
「あったかもしれない・・・遠い昔には・・・でも」
ぼくにも、ひととして生きていた時期があったのです。でも、その時期に蒔かれた不信、の根はもうどうしようもないようにひろがって・・・ぼくの魂を腐蝕させていった
それでもぼくは待ち続けていたけれど、自分のなかのかたくなな何かが、ひえたままのこころが、罪を重ねていった。
この手は

そのひとは自分の手を見た。

もとめることのない冷たいこころの象徴なのでしょう


そのひとはRの目を見た
あのときも、ぼくは愛せなかったのです。ひとつの存在を・・・救うことを望みながら、そのようにふるまいながら、でもけっして求めようとはしなかった。
いくつかの手によって引き離されていったときにも、ぼくは冷静なままでいられた。
そして・・・ぼくは生きることをやめました。

・・・そう、この肉体は生きている、でも
あの日から、ではないのです。ぼくは求めることができなくなっていた。。いままで、このながいあいだ。でも

その子が生きていれば、あなたくらいの年齢になって・・・
「いま、あなたの見てきたものが‥‥すこしだけ見えた‥‥

「目を閉じて」

「あなたの夢のなかにはいります・・・・静かに呼吸を深く」
「あなたは何・・・」

……ぼくたちの正体?…
「死の天使 というひともいるようです。いくつもの結果からそう呼ばれてもしかたはないのですが・・・」

この灰色の羽は、喪われてゆくものの象徴。そして滅びてゆく時間の・・・すべてが喪われてゆくことの・・・すべてがつかのまであることの



手がRの額に触れた
「あ・・・」
砂のひとは小さく叫んだ
     ・・・・・そうだったのか・・・・でも、もう・・・・

「さいごに、あなたに出会えた。もう思い残すことはないようです」
「これでここに来るのは最後」
「ええ。・・・・でも、あなたにはまた・・・」
その人は静かに笑った
「ありがとう・・・・」
ドアがそっと閉じられた。


Rは不眠からは解放されたようだった。冬は深くなり、新しい年をむかえた。単調だけれど安定した日常をRはくりかえし・・・ただ、街のあちこちを目的もなく歩くようになった。

信号に立ち止まり、向こうを歩いてゆく若い女性を眺める。Rと同じとしごろの。

・・・・凍っていたのは、わたしも・・・

そのひとの顔は、すでに思い出せなくなっていた。かわりに、




Rは走り寄った。
そのゆっくりと大きな羽ばたきは、空気のふるえとしてRにつたわってきた。音は聞こえなかった。

砂の人は空に吊されて、藻掻いているように見えた・・・あるいはどこまでも墜ちつづけているようにも・・
「・・・どこにも・・・・どこにもぼくの場所はない」砂の人の声が聞こえた。

「ちがう」と、Rは叫んでいた。
その声に打たれたように、砂のひとのからだから力が抜けていった。その黒い翼からも。

落ちはじめた。音もなく、ひどくゆっくりと・・・・Rが駆けよろうとしたそのとき、なにか見えないものの手が、砂のひとのからだを抱きとめたようだった。
そして砂のひとのからだは高く小さく、灰色の雲のなかに吸われるように消えていった。

泣いてRはめざめた。
さしこむ静かな光。休日の朝。

胸の芯に感じた痛みは、やがて淡く消えていった。

その日から、砂の人 は来なくなった。こころに呼びかけても。


たしかにもう、Rの不眠はとおいものになっていた。目を閉じ、うかぶ想念をみつめているうちに、いつもいつしか眠りにひきこまれていった。
その砂の人はRに、森の眺めを残していった。ところどころひらけ、草の丘がひろがり、それは鮮やかで、どこかにかならずある場所に思われたけれど。でももう、Rの手をひいてそこにみちびいてくれる砂の人、の姿はもうなかった。



その年の冬の日


……忘れないで。そのひとの約束は、いまも続いているということを。

そして その砂の人は雑踏にまぎれ、見えなくなった。
Rは、月のない冬の夜空を見上げた
みえない階段を静かにのぼってゆくその砂のひとの姿を探して。
けれども、そのすがたはどこにも見えなかった







__________________________epilogue________________


そして、とても長い月日が 過ぎていった。いつか世紀もそのなかばを越え、Rは病院の、白く清潔なかべに囲まれてベッドに横たわっていた。
初夏の夜が明けようとしていた。
時計は午前四時をすこし過ぎたばかり、空は見るうちに明るくなって、やまいの疲れがRの首をわずかにしか傾けさせなかったけれど、病室に人が入ってきた。

若い医師だろうか。彼は東側の窓を静かに開いた。

樹々のかおる、すこし冷たいけれど柔らかな風が・・・

「風がお好きだったでしょう・・・」
その声を、Rはこころのかたすみにかすかに記憶していたようだった。

・・・・でも、まさか

その白い男の姿はRのベッドのかたわらに歩みよってきた。そしてすこしよろめいてベッドの縁を掴んだ

「このからだも久しぶりなので感覚がもどらなくて」男は笑った「でも・・・」

「ぼくのことを覚えていますか」
「・・・まさか」
「でも、そのまさかなんです。あなたを迎えに来たんです。さあ、立って・・・」
「もう、わたしはたてないの」
「そこに脱ぎ捨てた体ではね・・・」
男の手が伸び、Rの手を握った
不意に何かが解き放たれ、Rは立ち上がった。
「ふりむかないで。さあ、こっちにきてください。窓から出ましょう」

ふたりは、開け放たれた窓を乗り越え、病院の、まだ誰もいない中庭に立った。

「あなたはその年齢を選んだのですね・・・15才ですか」
と、そのひとは笑った。
Rは自分の姿を見た。白く風に揺れる布にからだをつつまれ・・・
「ぼくは13才のからだなのに・・・こまったな。でも、もうぼくのほうが背は高いですよ」
その人は腕をひろげてRに近づき、包みこむようにRを抱いた。
「ずっとまえからこうしたかった・・・あのわかれの日にも・・・」
その人の背に白いはねのあることにRは気づいた
「これは翼?」
「あなたにもありますよ」
その人の手がRの翼に触れた感触があった。むず痒いような感触に、Rは笑った
「でも、これで飛べるの?」
「どちらかというと象徴ですね。いまのぼくたちの体もひとつの象徴ですが・・・そろそろひとたちの起きてくる頃です、いかなくては」

風が起きた、ように感じたけれど、それはRたちの翼が風をはらみ・・・そして体が浮いた。

足元に、病院の白い建物が見えた

「これは夢?」
「夢ではありません。さめることのない夢にも似ているけれど」

「ここからどこへ・・・」
「どこにでもいけますよ。いつの時代でも、たとえほかの星でも・・・でもできたら」
「なに?」
「ぼくは行きたかったのです。いつかあなたが話したことのある 5月の午後、上っていった川の、あの水辺に・・・」
「あそこもすっかりかわってしまった・・・」
「まだあなたは・・・」
そのひとは笑った「時の流れの意識に囚われているようですね。それもしかたないか。まだこの状態に慣れていませんものね。でもすべてはあのときのままに保存されているのです」
「・・・・・」
「その日のことを思い出してください。ぼくも手を貸しますから」

Rは目を閉じた。
不意に、足が石の道を踏んだ。
「ここは?」
「そう、そこなんです」
まばゆい初夏の陽ざし。若葉。縫うようにちいさな蝶が・・・水の音が聞こえてくる

「あの雪の日、あなたが飛び抜けていった灰色の鳥に気をとられて、ぼくと つないでいた手を離したものだから」
「・・・・」
「ぼくは先に墜ちていった・・・わずかの差に見えたけれど、そこでは意外に長い月日が過ぎていて」
「・・・・」
「ずっと待っていたんです。でもあまりにも長い間だから、ぼくはいろいろなことを忘れてしまっていた」
「・・・・」
「もうすこしのあいだは、この手をつないでいてください・・・・そしてそう、もうじきあの日のあなたに会えますよ。覚えていますか・・・」
「・・・・」
「ふしぎな風があの日のあなたに触れて、あなたの心を明るくしたことを・・・・それは、ぼくたちだったんです」
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  1. 2017/04/12(水) 10:50:33|
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