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あやしく意味不明のダークファンタジー&SF。 一応健全(?)

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山水図

…その光あまねき冥府に、わたしは午睡に墜ちる。夢というつかのまの覚醒のために


    山水図


       1

硬い感触があった。直角の金属が首のうなじ近くに押しあてられている。その首の皮膚が冷えて、粘るように濡れている。汗のような、あるいは油のような。そこから骨に振動が伝わってくる。鉄道のレールに頚をのせて横たわってでもいるように。聞こえてくる音がある。
それは深いところを流れる水の音に似ていた。背中の鈍い痛みが強くなってくる。指先がひきつったように こわばっている。傾いてゆく体を支えるために何か手がかりを探していたようだ。指先に触れているのは、短い棘のようなものがいっぱい生えた、全体に弾力のある平面だった。その平面も波うつように揺れている。だが、その揺れはおさまりつつある。
 目は、はりついたようになかなか開かない。顔が歪み小さく呻いたのかもしれない。

どこからか声が聞こえてきた.

掠れて、低い声。
………何度目になる
………さあ、覚えていない
静かな、幾つにも重なって聞こえる声だった…閉ざされた洞窟のなかで聞こえる声のように…おなじ声のように、同時に何人もが声を合わせているように聞こえて…しかも、さっきも同じことを聞いた気がする。
 
佐江はいつか目が開いていた。すべてが白く眩しい。そこは、バスの中だ。正面に膝を揃えて座っている女がいる。三十過ぎに見える。眼鏡をかけていてこっちを見ている。その女性のかおに見覚えがあるような……。それはずいぶん昔の記憶のように思える。

佐江は首を立てゆっくり、車内をみまわす。ひどくだらしない格好で横たわっていたらしい。泥酔者のように。
黙って向けられている人々の視線を感じ、体を起こしてシートに座り直す。足元に鞄がある。あかい皮革でできた、自分の旅行鞄だった。それを引き寄せるために体をかたむけたとき、右目の奥が、鈍く痛んだ。

一瞬、暗い赤の中心に白のある光を見た。白・・・輝く白ではない石灰のような白の…あるいは漆喰の壁のような白…

背中の痛みが、現実感のようなものをよびもどしてくる。バスの中でつい深く眠ってしまったらしい。それも意外に長い時間。
不意に鮮やかに、今どこに向おうとしているのかを思い出す。
 佐江は、帰郷するのだ。
夏の帰郷
これから。海近いあの町へ、そう…十数年ぶりに帰っるのだ。

深く、息をついた。流れだし、また引き戻される風に、喉が鳴った。乾いた冬の風のように…何か、強制的に息をさせらている気さえするほど長く。私は外を眺める。広い道路のコンクリートの路面は白く乾き、走る車はひどく少ない。いま対向車線を、赤いオートバイが過ぎてゆく。ふたり乗りをして。うしろの若い女性の髪が、風にたなびいている。佐江は、眠ったように目を閉じているその若い女性の横顔に、かすかな記憶があるように思った。そして一瞬のあいだにすれ違ったオートバイの若い男にも…懐かしくさえ思える記憶…痛ましさに近いかなしさを佐江は感じている…そのかなしみの鋭さが、佐江には不思議だった…

バスは橋を渡り始めた。緩やかな坂の長く広い四車線の橋。奇妙なほど道路は空いていて、ほかに車は、全くみえない。空気が白く霞んでいる。ただ、遠景がさらに霞んで見えているわけでもなかった…どこも、一様に朦朧とした乳白色の気体に包まれているようだった…

空は晴れているのだが。奇妙な眩しさが、むしろ風景全体を暗くさえしているような

その先に見えはじめた…街。都市近郊の、どこかで見た都市のコピーのような、どこにも特徴のない市街。K市。高層の建物と錯綜した歩道橋…私は左腕の時計を見た。午前十時を少し過ぎている。その時計は父の時計だった。戦前の、手巻きの時計。屋根裏の革のトランクに入っていた。いくつかの手紙とともに。



…あの英語で書かれた手紙を…父はどこに出すつもりだったろう

と、佐江は考えている。

あの夏に、佐江と佐江の母のもとには戻らなくなった父は、故郷の海辺の町で、親子ほど年の離れた女性と暮らしはじめていた。

その町に、佐江は夏の休暇を使って行こうとしているのだった…その町で、いまもなお父が暮らしている…ということ…それが淡い悪寒に近い気分を呼び起こすのはなぜか…どこかに遠ざけている記憶があるにちがいなかったのだが…

なぜかいま、その記憶を甦らせることができない。
時計は、かろうじて聞こえるかすかな音をたてて時を刻み続けていた。放心のなかにあるように、佐江はそのかすかな音に聞き入る。視線は穏やかに明るい地方都市の眺めを映している…何を見るということでもなく…漂わせている視線は、風景に吸われてゆくようだった。

あるいは、消しゴムで消されてゆくことの逆の操作のように、視線が風景をなぞりながら再生してゆくような…

つまり、見ている、という感じがしない…ということなのだろう…と佐江は考える。風景…日常通い慣れた道の、その風景。十数年のあいだ毎日のように重ね合わされ、記憶とはすでによべないほど、感覚に溶けこんでしまっている…

あるいは、見ている…という手がかりが感じられない…ということなのかもしれなかった。不眠ののちの放心のように…佐江の感覚の何かが、眼前の風景から遠くされている…ほとんど、手の届かないもののように…

暗い赤の煉瓦で組まれた教会の塔が見えた…その最上部にある木製の十字架は、白く塗られ、その白がところどころ剥げ落ちている。

そのさきの空は青かった。鮮明さとはどこかほど遠い、鈍くさえ感じられる青…夏の湿度のために、光が散乱しているとしても…

駅はその教会を斜め右に入った先にある・・・
バスはゆっくり左に傾き、その向きを右にかえた


             2
切符を買い、佐江は駅の構内に入っていった。

登校の時間帯なのだろうか。中学生たちが、流れのように、流れのなかの魚のようにひらひらと身をかわしながらゆきすぎる。

夏服の白の明るい眺め。

ゆきかう少年少女たちの表情まで、みな陰翳なく明るいものに見える。どの少年少女たちも、笑顔さえ浮かべているかのように。

佐江は、半透明の樹脂板で覆われている駅構内の天井を見あげる。そこで淡い雲を透した陽光のように光が散乱し拡散して、むしろ外よりも明るく感じられる。少年少女たちの表情が明るく見えているのは、その光のせいかもしれなかった。

駅のホームの聖堂に似た天井は高く、そのかすかに乳白色の樹脂の透明を透過して、八月の白い光が降ってくる。熱気のようなものはまったく感じられない

その、流れてゆく少年少女たちのなかで数少ない大人たちは、ほとんど動くことなく立ちつくして、美術館に展示された塑像のように見えていた。
・・・・塑像のように見えているのは、その年齢や男女さまざまではあったけれど、その肌の色なのかもしれなかった。黄緑色を極くかすかに帯びた石膏の色。そして、ほとんどモノトーンのように見えるほど色彩の淡い彼らの服装…
皆、視線を動かさず、口をわずかに開いたまま、その姿勢をうごかさない。



音楽に重なるように、到着する電車がアナウンスされる…かすかに、だが確かに、金属音のような高音が混じっている。

…何の音だろう…

と、佐江が思ったとき、それは明瞭な音となった

小鳥の囀りにも似た、高い軋み。あるいは無数の3cm程度の幼児の笑い声。氷の中の泡のはじけるような・・・・舞い上がってゆく無数の小鳥たち

しかし、舞いあがってゆくのではなく、突然、何かが降り始めた。
雷鳴のない夏の驟雨。でも、降ってきた白い氷塊のようなものは雹ではなかった。
少年少女たちのあいだから、歓声とも悲鳴ともつかないものがあがった。

天井の透明な素材がこなごなになって降りそそいだのだ・・・と、いうことに気がつくのにしばらく時間がかかったけれど。
佐江は上を見上げた。
ところどころ天井の、半透明の樹脂の素材は残って、まだ思い出したように崩れて落ちてくる。しかし、青い夏空が見えた。真夏の、青空
電車がホームに入ってきた。無人だった。
佐江はは頭の破片をはらい、なかに入っていった。
電車は走り出した。ホームで、少年少女たちが戯れながら笑いあっている。

そのなかで、沈黙し唇を噛んで俯いているひとりの少女の手に、一瞬、かすかに血の色のようなものが見えたように思ったけれど。
その少年少女たちの髪の生え際、目、口元から鮮やかな血の赤が。
佐江は驚いてふりむくようにホームに視線を向けた。けれども、そこには真夏の光が降りそそぎ、さざめくように揺れている少年少女たちの制服を、まばゆいほどの白に見せているだけだった。

赤、はどこにもなかった。

                              3



いつのまに、線路に沿った周囲には防音壁が張りめぐらされ、風景から視界を閉ざすようになったのだろう。たしか、高速道路では、たしかにずっとまえから防音壁が設置されてはいたのだが。

佐江は上体を捻るようにして、視線を電車の窓の外に向けている。

濁った透明の、繊維強化樹脂の壁。かすかに向こうの風景、家、車、歩くひとの姿…それらは輪郭を曖昧にしながらも見えている。霧を通してのように、淡い黄色に、ほとんど奇妙に揺れ、そして歪みながら。
いつ、このような防音壁が線路の両側に張りめぐらされたのだろう。記憶がはっきりしない。踏切の場所だけは、その防音壁が途絶え、街の姿がそのまま見えるのだが。その一瞬の眺めが、やはりどこか平坦な陰翳と、淡い色彩に見えてしまうことを、再びさえは不思議に思った。

その陰翳の少なさ…それは雨の近い曇りの日の午後の眺めに似て・・・

でも、見上げれば雲一つない青空だったが。

佐江は、自分の乗る電車が、溝の底を走っているように思えた。停まらずに通り過ぎてゆく駅の、壁も、階段も、通路も、みなその薄く濁った透明の樹脂で作られ、隔てられている。



不意に、電車は地下に沈んで行きそうになる。ビル群のあいだにさしかかったらしい。通路の床も、やはりその半透明の樹脂板で張られていた。下から、その上を歩く人の姿が、空の青を背景に見える。

いま、佐江の頭上近い床に触れる無数の靴の形だけが黒く、明滅をくりかえすように移動してゆく。

しかし、次の駅はぼくの見慣れた普通の駅だった。いくつもの広告。雑踏。黄色い点字ブロック。夏の朝の陽の光が作る、鮮やかな影。ドアが開いた。冷えた風が入ってくる。奇妙なことに、涼しいとは感じない種類の、冷えた風が。
ホームの向こうに、木々が見えている。明るい緑の梢が弧を描くように揺れている。
あざやかにみえた。すこし過剰なほどに。電車はゆるやかに停止した。

ドアが開いた。しかし乗り込む人はいない。開いたドアを前に、三列に並んだ人の顔が見えている。視線を正面に向けたまま誰も動かさず。そしてだれも、この電車から降りてはいかなかった。

…各駅停車に乗ったのか

と、佐江は思う。

かまわない。急ぐわけではない。休暇は2週間以上あるのだから。佐江はシートに深く座り直す…

その座り直す、という動作に、どこまでも沈んでゆきそうな、奇妙な感覚がともなった。乗換駅までは、あと三つのはずだった。










木造の駅舎が、その乗換駅にはまだ残っていた。何度も塗り直されたらしい、明るいコバルトグリーンのペンキがつややかに光っている。なぜか、全く平に踏みつぶされた煙草の灰殻が、通路の路面に散乱している。掃除を、していないというわけでもないようだが…

午前の夏の陽がホームとホームを繋ぐ通路に射し込み、風に舞う埃を白く光らせている。

すこし太ったダークスーツの男がひとり、通路の中央に立ち、その陽光に照らされて、タオル地のハンカチで首筋の汗を拭っていた…その、こまかな玉となってふきだす汗を、佐江はすこし不思議に思う。

八月…そして夏とはいえ、それほどまでにここは暑いのだろうか。むしろ佐江には涼しいとさえ感じられるのだが。



………

男は、汗を拭い続けつつ、佐江には聞き取れない何かを、おそらくは苛立たしげにつぶやいていた。なぜかよどみなく流れるように…ほとんど無意識のように、長いことその言葉を繰り返し続けていたかのように…



通路は途中で、乱暴に打ち付けられたコンクリートパネルで閉ざされていた。そのさき

に明府にむかう支線のホームがあるはずだったのだが。



小さな白い張り紙を佐江は見つけた。ずいぶん昔に貼られたものらしく、黄ばみ、文字もすでに薄れているそれには

   中江線には西側の通路をお回りください

と印字されていた。

                 5



…このような月曜の朝は、疲れているひとが多いのだろうか

と、佐江は思う。…月曜…今日は月曜だったろうか。

目の前を、靴を引き擦るようにして、若い女性が過ぎてゆく。放心したような無表情で…口をなかばひらき、前歯のさきがのぞいているので、薄く笑っているようにも見えるが…

ベンチでは、足元にランドセルを放り出して、小学生の男の子が、首を折るようにまでうなだれて眠っている。手に、シャープペンシルだけを握って…

線路に、白い紙が散っている。模擬試験の問題のようだった…



一瞬、佐江はホームから降りて拾ってやることを考えた…

そのとき、音もなく明府ゆきの電車が近づいてくるのが見えた



そして、震動の多い、旧式の車両に佐江は揺られている。

乗客は、少ない。4両編成の全車両のなかに、おそらく十人までもいないだろう。ホームではもうすこし、人たちが電車を待っていたようにも思うのだが

明府までは十二駅…各駅に停止しながら、新たな乗客は乗り込んでこない。

窓はすべて開け放たれ、夏の風が吹き込んでくる。

眺めは、郊外の、しかも寂れつつある市街のそれにかわっていた。空き地…廃屋…シャッターを閉じた町工場。5階建てのマンションの壁に走った亀裂…そのベランダに干されている一枚の蒲団の白。

街路樹は、細く上にのび、葉はまばらだった…

そして、突然のように、海のけはいを感じた…そのけはいをずっと忘れていた…ということを佐江は思い出す。

明府駅前の眺めの記憶が、ほとんど鬱陶しいほどの生々しさで介入してくる。あの疲れた棕櫚…放置されたようにほとんど動こうとしないバスは、太陽に灼かれていて…



電車が止まった。ホームの柱に、「御幸」という駅名が見える。夏の制服の高校生がひとり、電車に入ってきた。どこか古めかしいセーラー服。黒い革の鞄から、褐色の文庫本をとりだして読み始めた。

その白い顎の先から、透明な汗が滴っている。雷雨の中を走りぬけてきたかのように…その額にも。髪の先にも汗が光っている。

その汗は静かにながれ、本のページに落ちた。

なにかの鋭い苦痛に、その高校生はじっと耐えているように佐江には見えたのだが…



一瞬、海が見えた。その空色の金属めいた輝きを、ひとつの拒みのように、いま、佐江は感じていた。







…駅前のロータリーのバス停の前で、佐江は時刻表をみて苦笑していた。

あと、二時間近くも、明府の岬に向かうバスは来ない。

雲一つなくなっている空を見あげ、短く迷って、佐江は歩きはじめた。たしか6キロほど…一時間もあれば、明府の旧市街につく。小さな城下町…寺院だけが多い。町の中央を割るように、意外なほど広い川幅の川が海に注ぎ込む…ひなびた漁港。人家は多く高台にあり、かつては夏の別荘地としての性格もあった。そしてサナトリウム…結核の患者に過度の陽光は禁物のはずだが、この土地の冬の暖かさと、穏やかに吹く海風がよいのだろうか…

そして、かつて少年だった佐江の目に、眠ったように退屈に見えた明府のまちは、いま、どのようにかわっているのだろう…そういえば、サナトリウムに並ぶように、巨大な医療センターが建設されたと聞いているが…



佐江は歩きはじめた



未舗装の旧道が残っている。8メートルほどの幅の広さで。両側を、葛の原を拡げて…ところどころに丈高い蓖麻をまじえて…

白く乾いた、砂と言うよりも土の道…佐江はその砂とも土ともつかぬものを掌にすくいあげ、指のあいだからこぼしてゆく…

乾き、熱を帯びていた。

しかし、大気からは暑さのようなものは感じない。

道は極くゆるやかな上り坂になり、その先は、風通しはよさそうな、それでも深い森に続いている。









コンクリートの、ほとんど平らな広場が作られていた。かつてここには小学校があったのではなかったか。周囲はむかしのまま畑だった。いまはスイカが、その蔓を、陽に灼けて熱いコンクリートのひろがりにまで伸ばしている。ひとつ割れてしまったスイカが、その赤い断面をみせている。

佐江が再び歩きはじめた下の市街に向かう道には、やはり夏らしい陽炎が揺れていた。そのさきから、ひどく旧型のブルーバードがこちらに近づいてくる。

けはいがあった。運転席側の窓がひらき、男が顔をだした。

「おまえか…」

低く、沈んだ声…父だった。「おまえか…」こんどはその声にすこし驚きのようなもの…あるいは怒りのようなものが滲んだ。「おまえも、ここに…」

父は苦笑をうかべ、すこし俯いた。

「夏の休暇がとれたから…短いけど」

「幸子は」

「…幸子?」



…幸子という名前が、具体的な記憶に結びつくのに、しばらくの時間が必要だった。それは佐江の妻のなまえだった。その名が、そして存在が遠く思われている。

「来ない」

「ああ…そうだったな」父は曖昧な笑いをうかべた。「来るはずはない…」

父は、この前あったときの記憶よりずっと若く見えている。いまの佐江とさほど年齢の開きはないようにも…髪が黒くなり、どこか昭和初期の青年のような感じだった…

「週末には帰る」

「帰る…どこへ」

と、父ははっきりと驚いた顔をして佐江を見た…

「週明けにはまた仕事がはじまるから…」

「……」

父は、すこし目を細くして濃い緑の葛の原を眺め、小さく息をついた。

「まあ…ゆっくりしてゆけ」

そして車の方に歩きながら振り向き、「おまえ…こどもは」

と尋ねた。

「…いない」

と佐江は答えた

「…車に乗れ」と父は短くいった。







離れで目を覚ましたのは、まだ真昼と言ってよい時間だった。忘れていた青畳の感触…そして匂い。藺草の匂いが、刈り取られたばかりのように、生々しく、濃い。

顔を洗いたかった。



佐江は立ち上がり、母屋につながる廊下を歩きはじめた。もともとは古いお寺の建物…廊下は年月を経て、暗い艶に濡れている。



中庭をはさみ、向こうの廊下に、白い浴衣の姿が見えた…いま、父と暮らしている女性が、ほとんど腹這いになるような低い姿勢で、廊下を磨いている。手足が鉛色を感じるほど白く、鬱蒼とした樹下の薄闇に見えている。



午前に出会ったとき、その女性は佐江を見つめたまま、ひとことも口をきかなかった…

頭痛を、それもかなり強い鈍痛を佐江は感じている。夏風邪ということもないだろうが…

たしかすこし歩いたところにふるくからの薬局があったはずだ…頭痛の薬を買っておこう…そう思ったとき、肺が、奇妙な発作のように空気を吸い始めた…むしろ、空気が吹き込まれて来るような…咽に風の音が聞こえ、腕の中に、なにか冷たいものが注ぎ込まれる感覚があった。

佐江は再び歩きはじめ、玄関に向かった。廊下に、ほとんどヤモリに似た姿勢で、廊下にからだをこすりつけるようにして前にはっているその女性の姿が見えた。







隣の神社の石畳を歩き、薄緑の軽石の壁…大谷石と言ったろうか…の続く道を、佐江は降りてゆく。

薬局は、昔と同じ建物だった。昭和の初めを思わせる和洋折衷の建物…ポーチを思わせる入口のあたり…淡い青に塗られている円柱が4本。鈍く光る真鍮の把手のついた暗褐色の木の縁の硝子張りのドアを押し、佐江は中に入った…



書物に目をおとしていた老人が、銀縁の眼鏡を下にずらして佐江を見つめた。

老人の顔に、ゆっくりと微笑がうかびあがった…

「佐江さんのところの…」

「ええ…」

と、笑顔を返しながら、佐江はすこし戸惑っていた…

その薬局の店主は、佐江の小さかった頃、すでに老人であったようにおもう。

だとすれば、すでに百才を超えていてもおかしくはないのだが…

どこかその老人の肌の色に、鞣し皮めいた黄褐色が加わっているのを除けば、その印象は、全くといって酔いほどかわってはいない…

「いつ、こちらに…?」

と老人は佐江の顔を見た

「今朝なんです…ご無沙汰をしていましたが…電車で3時間もかからない場所なので…」

「…そうでしたね…こちらもずっと東京にはでておりませんから」

そして老人は、思い出したように

「どうしました…」と、つけくわえた



「少し頭痛が…」と佐江はいった。

「激しい痛みですか」

「いえ…それほどでも…」

「眼の芯が痛むとか…手足の先が痺れるとか…」

「いえ…それはありません」

「…ならば」

と、老人の薬剤師は棚からアスピリンの錠剤をとりだし、佐江のまえに置いた。

老人のその手が、不意に激しく震えはじめた。

老人はすこし照れたように笑い、細いガラス製の注射器をとりだすと、白衣の袖をまくりあげて腕にゴムバンドを巻き、静脈に針をたてた…

熟練した、老人とは思えない素早い動作だった…

老人は、静かに息を吐いた。暗い黄緑色に見えていた皮膚に、赤みがさし、眼鏡の奧の目が光りをとりもどした。

「失礼…」

と、老人はつぶやくようにいった「痛み止めですよ…」

そういって、老人は窓の外に視線を向けた。

外には、桐の大きな葉が、八月の陽光を浴びている。

やがて老人は、かたわらの木製の椅子に崩れるように座り…やがて静かな寝息が聞こえはじめた…

佐江はアスピリンの箱を眺めて八百円という値段の表示をみつけ、硬貨でその金額を、カウンターの硝子板の上にそっと置いて外に出た。港の方に歩いてみよう…と思いながら。



10



道路をゆきかう車はほとんどない。それが町を眠ったように静かに感じさせてもいる…海の西に、夏の積乱雲がたちのぼり、時折、冷えた風が混じるようになってきている。午後遅くには雷雨がくるかもしれなかった。



漁港は、町の中心をすこし離れて、川に沿うように海にむかってのびた防波堤の内側にある。佐江の少年の日には、小型とはいえ、漁船でみちていたのだが、いま、港に…といっても小学校の校庭程度の広さなのだが…浮かんでいる漁船は三隻にすぎなかった。しかも、そのうちの一艘は沈みかかっているようにも見えている…

小高い岩場の下に、漁業協同組合の建物と、高い天井の市場がみえるのだが、そこにも人の気配はない。岩壁からすこし離れて、小型のトラックが一台とまっている。佐江は防波堤を沖の方向に歩いた。



海は凪いでいた。漣が、その表面を移ってゆく。佐江は防波堤の縁に腰をおろし、両足を垂らした。

海水は意外なほど澄み、海底の砂が青白く見えている。小魚の群が、防波堤の水中の表面についた胎貝をつついている。光りが揺れ、穏やかな音が続き、佐江は眠りに誘われるようだった。

白、を見た。

海面に浮かぶ白。人、だった。仰向けに、顔をだして。佐江は立ち上がった。二十メートルほどのところに、人が漂っている。死体ではない…と佐江は感じた。

佐江はシャツと靴を手早く脱ぎ捨て、防波堤から海面に飛び込んだ。

その女の、長い髪が海水に漂い、藻のように緑色めいて…

女は目を薄く開いていた。引き寄せようと佐江のつかんだ手には、体温があった。

…生きている

ひどくゆっくりとだが、呼吸もしている

佐江は背泳の姿勢になり、女を抱えて、ゆるやかなスロープになっている舟揚場へ泳いだ。



11



服が、と、いってもTシャツに、白いデニム地のパンツ…それが海水を吸って意外に重かった…異臭がかすかにする。腐臭…そして有機溶剤の…おそらくはシンナーの匂い…それがこの若い…ほとんど十代にみえる女の体からたちのぼっている。

女を、砂の上に横たえたとき、佐江は息を切らせていた。

「またおまえたちか…」

背後で低い声がした。ふりむくと、まだ若い、しかし顔色の悪い男が、佐江たちをみつめている。

「おまえたち…?」

「ああ…」

その若い男の声は、低く、その双眸は暗かった。「おまえたち、いつまでこんなことをくりかえせば気が済む…」

「人違いだろう…ここに来たのはこれがはじめてだ」

「……」

若い男は、それに答えず、低く嗤った。「まあ、いい…救急車は呼んでおいた…それでおれはしばらく静かに過ごせる…この女が入院しているあいだは、トルエンを吸ってらりって、海に飛び込む…なんて馬鹿なまねをしないからな…死ねもしないのに馬鹿なおんなだ…」

「いつもこんなことをしているのか…」

…ああ、いつもだ。

男は呟くようにいって、足元の砂をつかんだ。

「…そして、女が飛び込むと、やがてあんたがあらわれて、大騒ぎで海にとびこむんだ」

「まってくれ…ここに来たのはいまがはじめてだ…」

「あんた…なにも覚えていないのか…」

その若い男は静かに佐江を見つめた。

「なにを覚えている…というんだ?」

「そうか…あんたは忘れるんだな…あったことはすべて…」

「……」

「そのほうがいい…苦しまないですむ」

「なにをいっているんだ…わかるように説明してくれ」

そのとき、救急車が接近してきた…

赤い警告灯を明滅させながら。



オレンジの制服を着た救急隊員がふたり、救急車から降り、その女を担架にのせた。

「さきに乗ってくれ」

と、救急隊員のひとりが言った。



12



かすかに、午後の陽射しが傾きはじめていた。丘のうえに拡がっている病院は、異様なまでに巨大だった。多くは外面をすべて硝子壁とした建物で、地上十一階ほどもあるだろうか…透明な、あるいは鏡の構造をもつ、寒々しいほどの巨大な病院群。



「集中治療室だけでも…五十六ある」という救急隊員のことばは、ほんとうのことに違いない。

しかしなぜ、ここに…このような巨大な、ひとつの地方都市に匹敵するような医療機関ができたのだろうか…

集中治療室の通路のベンチに腰をおろし、蛍光灯の無機質な白い光りに照らされながら、佐江は放心したように、今日おこったことを整理しようとしていた。

靄のかかったように、思い出せない何かが、たしかにあるような気がしている。



「お入りください」という声がした。ドアをあけて、若い医師が佐江をみていた。



口に呼吸用のマスクをつけたまま、海に浮かんでいた若い女は薄く目をひらいて佐江を見つめ、そして左手をのばしてきた…佐江は静かにその手を握った。そのとき不意に、もうひとりの佐江がこの病院のどこかにいて、ベッドに横たわって死を待っている…そんな気がした。そして、こことは遠く離れた北関東の病院に入院しているはずの母が、ここで佐江を探して彷徨っている。病室から病室に、佐江の姿を探して…そんな姿が、一瞬、生々しく浮かんだ…

佐江は立ち上がり、治療室を出た。



「トルエンを直接飲んでしまっているので…死んでもおかしくはないくらいなんです…ここに来たときには危険な状態だったのですが…」

その若い医師は続けた。

「もう危険な状態は脱しています…」

医師は窓近くに歩いた。風景が、淡く夕暮れの色を帯びはじめている。

「ここにいると、体が幾つもあるような気がしますよ…あちこちの病棟を飛びまわらなくちゃいけないし…昼も夜もない生活時間だし…ぼくが何人もいるような感じにもなる…疲れはしているんだが、体も神経も無駄なく動いている」

「それにしても、凄まじい規模の病院ですね…」

「ええ」

とその若い医師は笑顔になった。「ぼくでも、まだ歩いたことさえない病棟がありますよ…それに、院長の顔をみたこともない。魅力的な女性だ、ということなんだが」



13



翌朝、佐江は父に起こされた。

「車を買ってやったぞ」

と父はいった。

「……え?」

「庭に置いてある…」



庭の中央の柿の木下に、その白いカローラのワゴンは置かれていた。よく手入れをされているが、もう二十年以上が経っているだろう…

それは学生の頃、佐江が乗っていたのと同じかたちのモデルだった。

「いまどき、よくこんなものがみつかりましたね…」

「川向こうの中古車屋でみつけたんだ…なつかしいか?」

「ええ…」と佐江は笑顔になった。「また、この車にのれるとは思わなかった…」

「これが鍵だ…すこし走らせてみたらどうだ…」

「そうしてみますか…」

と、佐江は言った。



そのカローラがからだになじむまで、時間はかからなかった。騒音も震動も、現代の車に較べてさほど大きいわけではない。



窓を開けて、佐江は車を走らせていた。1970年代のこの車には、クーラーなどついていなかったのだが…

夏の、すこし重いような風が吹き込む。ラジオのスイッチに手をのばす

…ニュースの時間だった。日付…時刻…佐江があの都市を離れているあいだにも継続している時の流れ…東名高速道ではバス二台を含めた多重事故がおこり、火災が発生していた…東北には震度四の地震…明日のこの地方の天気は晴れ…
左によせて、車を止めた。
川原の草は昨夜の雨に濡れている。降りてゆくと、川は浅く、流れは緩やかだった。半透明の、灰緑色の水面…空のなかばを薄く雲が覆い、眩さはあまりない…
 周囲に匂いが漂っている。
淡い腐臭のようなもの。底は緑を帯びた泥だった。水自体は、かなり澄んでいるのに。
……ここで渡ろう と思い、靴を脱ぎ靴下を脱いで素足になる。静かに足を踏み入れると、水は意外なほど暖かい。底の粘土が包むように足首までを埋める。土の粘液のような感触の下…底に堅いものがある。砂利や石などではないだろう。枯れ枝が朽ちて底に堆積しているのか。…まさか、無数の人の骨…などとということはないとしても。
 街が遠くなっていた。同時に心を患わせていたもの、焦燥の原因がすべて、遠くに去っていた と、いうことにもなるのだが。
 かといって、佐江の心は澄んでいる…というわけではなかった。
そうではない。粘度のある霧のなかにいるような…なにか重要な感覚を遮断されてしまっているような…
 ふいに、水底を歩いている気分がした。今呼吸しているのはたしかに空気で、水などではない。水は膝から下を流れているだけだ。それを視覚で認めながら、佐江はいまからだを包んでいるその生温い水を、確かなものとして感じている。いま、水の底にいるのだ、という気分がどうしても濃い。
 この感覚は確かに佐江自身のものなのだろうか。水の流れを冷たく感じ、晴れ渡った空を眩しく感じている、この感覚は。
 いま、佐江は酔っているようでもあり…熱に浮かされているようでもある。…思考も鈍くなって、幾つかの断片…白い蛍光灯の光…金属と金属のふれあう音…女のくぐもった声で交わされる会話…手の指先…そのようなものが霧のなかからうかびあがり、つかのま、現前の風景をうばい、冷たいほど鮮明な感覚となり、すぐに、あとかたもなく消えていった。



14


 川の先に森が見えている。
 濃い緑の、低い森。
 森の壁…境界としてそこにひろがるような…。
 その森がびっしりと地表を埋め尽くしている。ひとひとりのの通る隙間もないような…異様な密度で枝葉をのばし…からみあい…うごめく濃緑の蛇のように。
 ちかくを、鳥が飛んでいた。灰色の鳥。羽がささくれて…ばらばらになりかかった箒のように見えた…よく、あれで飛べるものだ、と思う。

野犬にでも襲われたのだろうか…
 バサバサとひどい音までしている。
 …まるで屍骸が飛んでいるように。
 見ていると笑いのようなものがこみ上げてくる。声にはならない笑いを顔に浮かべたまま、佐江は川を渡りつづけている。
 相変わらず、川は深くも浅くもならない。水は暖かい。あとすこしで、向こう岸につく。その対岸の草の中に車が並んでいた。
 しばらく足をとめてその累々と並ぶ、車の列を眺めていた。

なにかが冷えてゆくような違和感。
その違和感がなにによるものなのか確かめるため、佐江は川を渡る足を速めた。

15             

ふつうの廃車置き場であれ、スクラップのストックヤードであれ、年式は古いものの、まだ走り出せそうな車が多く残っているはずなのに、ここに置かれている車は、どれも異様なかたちに歪み、焼けただれたあとを残し、洩れたオイルに車体を黒ずませていた。

おそらくは、使われ続けて廃車になった車たちではなく、事故車だけを集めて、ここに積みあげているのだろう。陽炎のようなものが揺れている。

そして、淡く黒煙のようなものも。すこし離れたところの車の残骸に、二台のバスが置かれ、そこから黒煙は立ちのぼっているのだった。

斜め右前から、ひどくひしゃげているものの、その臙脂色のバスの車体は、新しい形式のラウンジバスのように見えた。壊れた窓のカーテンが、風にゆっくり揺れている。その下には、乗客の荷物のようなものまでが散乱して…あるいは、乗客の死体さえ…ありそうに思えて佐江は靴下と靴を履き直し、その二台のバスのある廃車の山にむかって歩いた。

二台のバスは燃えていた。陽炎のように透明な焔につつまれて。何かが続けて割れる音がした。バスのヘッドライトから、クロームシルバーの粉がきらめきながらこぼれ落ちている。見あげれば熱気のために空が揺らいでいる。そして、いちばん上に置かれたバスの車体が傾きはじめているのを、佐江はすこし茫然としてみつめていた。

何が起きようとしているのかに気づき、佐江は走った。廃車の山が崩れてゆき、錆色の埃が立ちのぼった。

佐江が離れた坂の上に立ち、その風景をながめた。どこか遠いところで、ひとつの都市がこのように崩壊してゆく…佐江はそんな気がした。



16



その午後、まちの西のはずれ 松林に添う道を歩いていた。舗装はされているが、かなり狭い。車がすれちがうにはきついだろう。
 ここは、どこかの公園の遊歩道なのだろうか。いや…松林の冷えた翳のなかは、かつてここが古街道だったのではないか…と思わせる。
いつものように既視感が からみつく。いつになく、その既視感は強い。
すこし不愉快なまでに。

 見上げると、雲ひとつない空だった。さまざまの方向を見上げる。どこにも、雲ひとつない。かすかに眩暈のような、酔うような感覚がくる。
 足を止め、それをやり過ごす。顔から血の気が引き、すこし青ざめている感じだった。
真夏の陽光が河原の白い砂を灼き、照り返しが顔に痛い。
 目を細め川のほうを見る。川は枯川になってところどころかわいた川底をみせていた。流れはかろうじて細く青く光っていたが。
 なにかが光った。空の高いところで。…飛行機だろうか。
わたしはそれを確認しようと、松林の日陰から出て河原に降りた。何かが落ちてくる。

 空から舞い降りてくるのは、飛行機の破片や絡んだパラシュートなどではなかった。
人間と…そして…オートバイ。
オートバイが…なぜ?
人間は片手でオートバイのハンドルをつかんだまま、くるくるとまわっている。
そして、鈍い音がした。砂が水柱のように吹きあがった。
駆け寄ると、オートバイと男が、なかば砂に埋もれている。
男は動かない。
…死んだのか。
と、思ったとき
「うーん」と唸って男は、左手をつき上体を起こした。
「大丈夫か」
「ええ…」口に入った砂を吐き散らしながら、男は立ち上がった。男…その意外に若い男の首が、奇妙な角度で曲がっている。
「きみ…くびがおかしいぞ…」
「あ、そうですね」その若い男は顎に手をあて、ちからをこめてひねった。首の骨がぐきっと鈍く響く音をたてた。
「大丈夫か」
「……え、ええ」若い男はくびをおさえながらこっちを見た。
その若い男は周囲を見回した。
「ここはどこです」
「………どこ、とは?」
「僕は今まで道を走っていたのに」
…ふあ、と若い男はあくびのような呼吸をした。
「…道?」
「高原の道を」
「きみは空から降ってきたんだ」
「まさか」と若い男は笑顔になった。

              2
バイクはさほど砂に埋もれてはいなかった。二人がかりで倒れていたのを起こし、河原の上に押し上げた。
「RZか…」と、私はいった。
「ご存じですか」
「ずっとまえに、のっていたことがあるからね」
「ずっとまえというと…」
「もう二十年以上前になるだろうか」
それをきいて若い男は笑った。
「僕のバイクはそんなに古くありませんよ」
「……」
改めてそのバイクを見ると、つい最近乗りはじめたばかりのように、たしかに新しく見えた。だが、タンクに血が流れている。
「きみ…怪我はしてないか」
「僕がですか…べつにどこにも」
「とにかく、病院には行ったほうがいい」
「そうですね」
男はバイクのスタンドを立て、縁石に腰をおろした。

「ちょっと、ぼうっとしてしまって」

男は額に手を当て、しばらく何かを考えていた。

「…思い出しました…ここに大きな病院があると、白い服を着た男に聞いたんです」

「ある…たしかに…」

「そこに、ぼくのずっと探していた子がいるのかもしれないんです…十年以上もずっとゆくえがわからなかった…」

「……」

「入院していると聞きました…あの病院の精神神経科ブロックに…」

「あれだけの大きさの病院だから、精神神経科もあるのだね」

「いえ…あの病院の約半分が、精神神経科の関連の病棟で占められているそうです…でも、あの病院のどこかに彼女がいる…」

「いこうか」

と、佐江はいった。

「ええ…」

とオートバイの若い男は笑顔になった。



17



父から、このまちにも図書館が、美術館を兼ねてあるのだ、ときいた。簡略な地図をたよりに、佐江は車を走らせている





 道路の舗装はひび割れ、痩せた草が生えていた。
ゆるやかな上り坂の先に低い森がみえる。
密生した、どこか熱帯の河口のジャングルをおもわせる森の姿。
何軒かの民家が、その樹々のあいだにのぞいている。
佐江は、助手席の上の、あの薬局の主人にもらった地図を見る。
どうやら道を間違えてはいないようだった。

佐江は民家の廃屋の前の草地に車を乗り込ませた。
丈高く伸びた草をタイヤが踏みしだき、草の匂いがたちこめる。

廃屋は、全部で三軒だった…ように見えていたのだが、その奥の樹々や草に埋もれ、すでに家の原形をとどめていない家家がかさなりあうように見える。
手前のひとつはかつて商店であったらしい。雨戸が一つはずれ、その暗い内部が見えている。

錆びた看板は、斜めに傾き、清涼飲料の壊れた自動販売機の前には、こぼれ出たコーラの缶が散乱している。その缶のひとつを手にしてみると、中身が入っていた。缶は白い錆のようなものをふいていたが、ふと…飲めるかもしれない、とおもった。
リングに指先をかけ、ふたをあけた。褐色の泡が吹き出してくる。さすがに、口をつける勇気はない。
佐江は地面にコーラをこぼしてゆく。

 風は、海からきている。風には…極くわずかだが、雨の先触れのようなものを含んでいる。
空は…柔らかく、雲ひとつなく晴れているのだが。

…しかし、このような場所の先に図書館があるのだろうか。
と佐江は思う。
そのとなりの廃屋では、外れた雨戸の合板が剥がれ、ささくれ、嵐の後の芭蕉のようになっている。
 廃屋のひとつをのぞきこむ。畳は意外なほど乾いている。
埃はうっすらとは積み重なっているとしても。
内部に家具らしきものは、何もない。
暗い奥の部屋の窓は開け放たれ、その先に明るい緑の木々が見えている。

 佐江は家の裏側へ歩く。
 やがてあらわれた廃屋と廃屋の間の道は、なかば夏草に覆われていたけれど、鉄色に鈍く光る自然石を敷き詰めた石畳になっていた。



18


 これは…あるいは神社の参道のようなものだろうか
と、おもう。
 だが、そうではないような気がする。たぶんこの先にあるのは神社などではない。
 石畳。巨大な火山岩を組み合わせた石垣。道の両側のすべてが、蔦や葛に覆われていた。生い茂る草の中、しかしあらゆるものが乾いている。そして静かで、明るい。
 何を感じたのか佐江の腕に鳥肌が立ちはじめていた。
どこか外部から迫ってくる種類の恐怖、を感じているわけではないのだ。
 佐江のなかでなにかが覚めかけている。ならば覚めることが、このおびえをもたらすというのか。
その、不吉の予兆…のようなもの。
 灰色の上着をぬぎ、左わきにかかえる。
佐江のひたいににじむあせは冷え、乾きはじめていた。



19


 石畳の道は、いつしかゆるやかな下り坂になっている。しかし、谷底へ降りてゆくという感じはしない。みあげると空の広がりが、むしろ近くなっている気がする。丘に登っている感じ、というのが近いだろうか。
 いつしか、周囲の草の葉は巨大といっていいものになっている。南の植物をおもわせる、明るい緑をして、いくつもの蔭翳がかさなりあっていた。
「………」
 道の先に人が立っていた。
逆光の中の、老人と少女。
ふたりは佐江を見て、笑顔になった。

「お待ちしていましたよ」
その老人のアクセントには、かすかに奇妙なところがあった。西洋人のおぼえた日本語のような。
「……わたしを?」
「ええ、あなたを」
老人はささやくよう声で…さあ、こちらへいらっしゃい
とつけくわえた。



「……図書館はこちらです」
と佐江のほうをむいて、その老人はいった。



その図書館の建物は、沈みこむように低い二階だった。
沈みこむように…
という印象があったのは、二階の床がほぼ目の高さにあるためだろう。その二階も窓は見当たらず、まだ未完成の建物のようだった。あるいは駐車場にでもなっているのか。
と佐江が足を止め眺めていると、背後から
「…こちらへ」
と老人が声をかけてきた。

「このさきに、この町に生まれ、夭逝した画家の作品を展示した半地下の通路があります。ぜひ見ていらっしゃい…」

19


それは壁面全体に描かれた日本画のように見えたけれど…
銀泥の地に刻みつけられるような線描。えがかれているのは、霧の流れ…というべきものだろうか。  



外の、雲が流れ去っていったのだろう…、さしこむ光りが明るくなりはじめた。



絵が、より鮮明にみえてくる。

似て、いた。たしかにそれは父に…そして父と暮らしているあの女性に…そして佐江自身…背後に佐江の母…あの港に浮かんでいた若い少女…オートバイの男のそばに、ひとりの痩せた女性の姿が…



そればかりではなかった。ほとんど無数といってよい人間が、その画には描きこまれていた。霧のように流れる、幾つもの繊い銀の線を用い、それを多層に重ねて…



それは、人の描いたものではなかった。ひとを超えたなにかの手によるものに違いなかった…そして、佐江にはわかったことがある。ここは数日前まで佐江の生活していた、あの世界の続きにある世界ではない…



そのとき、背後であかるい声がした

「やあ…ここにいましたか。この公園の入り口に佐江さんの車があったものだから…」

それは、あのオートバイの若い男の声だった。

振り向くと、あの男のかたわらには、背の高い痩せた女性が立っていて、佐江を見て小さく頭を下げ、笑顔になった。

「その人は?」

「やはりあの病院に入院していたんです…もう通院でもよいくらいに回復していたのですが、身元を引き受ける体制が整わなくて…でも、ぼくのところにつれてゆきますから…」

その若く背の高い女性は、オートバイの男と腕を組んで微笑んでいた…その女性の目の湛えているひかりには、すこし佐江の心を冷やすなにかがなくもなかったけれど。 



20



幾つかの記憶が、その午後の夢のなかで甦った。夢と言うにはあまりに生々しく。

集中治療室のベッドに、佐江は横たわり、人工呼吸器の働きを借りて、呼吸を続けている。かたわらには憔悴した表情の幸子がいる。幸子は視線を、わずかにひらいた窓の外に向けている。雪が、その都市に降り始めていた…

佐江は思わず呻いて目覚めた

かたわらに父がいて、佐江をみおろしていた。

            

「…わかったか…ここはどんな世界なのか…」

「ようやく…すこし…」

「わたしは、自分自身に語りかけるようにして、すこしずつ記憶を確認していった…数字…日時…今が何年の何月か…そういう記憶は結局よみがえらなかった…ただ、風景の記憶、ひととかわした会話の記憶の断片は残っていた…それを必死につなぎあわせて、わたしはノートをつくった。ここの世界の物質は不安定だから、書いてあったはずの文字が消えたりもしたが…わかってきたこともある。わたしは肺癌だったのだな…」

「ええ…」

「あの主治医の若い医師の言葉をつなぎあわせると、重い、末期の…」

「ええ…心臓に近い縦隔にまで転移していた」

「…わたしは、もとの世界では死んでいるのだな」

「ぼくの記憶では…ある初夏の日に」

「おまえは…?」

「あえて記憶を整理することを避けていたのですが…ある冬…寒い朝に、記憶が途絶えています…」

「死んだのか…」

「あるいは、すべての意識を失って死を待つばかりになっているのか…」

不意に、父が涙ぐんだ。そして言葉をつづけた。

「ここは永遠に夏の場所だ。あるいは不死という無限の繰り返しのなかにからめとられてしまっている…最初、わたしはそう思っていた」

「……」

「だが、違うらしい」

「……」

「かすかな変化がある…薄いフィルムを一枚一枚はがし、またあらたなフィルムを重ねてゆくような…」

「変化はあるのですか…」

「ここを出て…帰ってこないものもある。一度どこかに帰って、ふたたびここに現れるものもある…あの、わたしと一緒に暮らしている女のように…」

「……」

「どうやらわたしは、あのおんなに愛されていたらしい…そして、おまえも帰ってきた…」

「ぼくはここにいたことがあるのですか」

「ああ、わたしの前に現れたのはこれで二度目だ…その二度、という数字に根拠はないが…」



父は立ち上がり、青いノートを佐江の前に置いた。

「おまえは帰ってきた。わたしはそのことを悲しみ、そして喜んでもいるらしい…この緩慢な地獄にも見える場所で、永劫の罪過の償いをつづけなければならないような場所で…だが、救いが用意されているようにもおもうのだ…ひどくゆっくりとだが、喪っていたものを、この苦しみのなかで、わたしはとりもどそうとしている」

「……」

「だが、それはわたしたちのあとにしてきた世界では、いまのこの場所よりはるかに容易に得られたはずだった…ひとことの、やさしい言葉でさえ充分だったのに、なにかがそれを隔てていた…できたのに、できなかった。結局わたしは…」

「……」

「ここで、それに気づいたのだよ…そして、永劫の繰り返しのように見えるなかで、なにかが螺旋のように上げられてゆく…ここにこうしていることが…このようにわたしが思うことが、もうひとりの、そして無数のわたしへの働きかけになっている…そう思えるときもある」

「ぼくたちは…意識のかたち…としてこの、いつまでも夏の場所にありつづけるのですか」

「ここにこうしていたこと、そのことは消えることのないなにかなのだろう…そのことから逃れることはできない…同時に、そこにあらたななにかを重ねて行くこともできるように思っている…たぶん…くりかえしのスケールに違いがあるだけで、わたしたちのもといた世界でも、おなじことなのかもしれないが…」

「…一度、戻ってみよう」

「それがいい…午前七時にバスが出る…荷物はいらないだろう…それに乗るといい」

早朝の鳥が鳴き交わし、樹木をわたりはじめた。大気を充たす光からは、黎明の青はすっかり消えていた…



丘の上のバス停に向かい、佐江は歩いた。

道の向こうから、オートバイが来た。あの若い男…そして背の高い女性が後席に乗っていた。

「帰られるのですね」

「うん…」

「お気をつけて」

オートバイが発進すると同時に、バスがやってきた。佐江はバスのステップを登った。



道を、バスは淡々と走ってゆく。道のむこうの空は、灰色の壁のように曇っている。すこし離れた丘の上に平行する道を、あの男のオートバイがはしってゆく。

男は、すこし俯いて、その横顔が眠っているように見えている。そして後席から、若い女が身をのりだすようにして、オートバイのハンドルを支えているようにも見えている。





不意に、佐江に烈しい眠気がきた。

「…眠ってしまってはいけない」
佐江は声に出していった。
…眠ってしまっては、また、すべてを忘れる。忘れて、同じ事を繰り返す。

永遠に、この場所から抜け出すことができない。永遠に夏の、この場所から…
しかし、睡魔がきた。
 感覚が遠くなり、意識が薄明の闇にちかづいてゆく。
「…そうか」
…そうだったのか。わたしはまだ…この場所から…父の姿…病室に横たわる母の姿…そして、投身をくりかえす、あの少女のすがたが浮かび、薄明の白に拡散していった…

 首を傾けて眠る佐江をその男は見つめていた。老人…その男は老人なのだろうか。皮膚はロウのように白く、しわもあまりなく病み果てた少年のようにも見えた。その黒々とした眼が…眠る佐江を映している。そして老人の顔が、苦痛のためのように歪んだ。
 老人は立ち上がった。周囲の視線がその老人に集まる。数人の男女。少女。男の子らが老人を見つめる。皆沈黙している。
 老人は30cmほどのその一歩一歩を刻むように歩いて、佐江のまえに立った。そして佐江のひたいにてのひらをあてた。
「…わたしは、…動く…わたしに」


そのことばを、皆が緊張して聞いていた。ひくいざわめきのようなものがひろがってゆく。
 バスは速度をおとしつつある。かすかな軋みはブレーキから聞こえてくるのか。停留所がみえた。
 バスは停止し、ドアが開いた。老人はバスを降りた。
 再び走りはじめたバスの中で、うごかない佐江を、六人の乗客がみつめている。 
 ささやきかわす声のようなものが、聞こえている。
……この次は、なんとかなるのだろうか
……うまくいくといいけど

…いつか、魂の力は尽きてしまう、そのまえに、このひとの救いは来るのだろうか…

佐江は自分の意識が、幾つにも重層してゆくように感じた。

重層し、歪み、その境界を滲ませながら、けれども、もう以前のようにひとつにはないのだ…と父は言う。くりかえしありつづけることの果てに、佐江はどこにたどりつくことができるのだろう…かすかに、そして遠すぎる希望のようなものを、眠りに雪崩れてゆく佐江の意識は感じていた


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  1. 2006/01/26(木) 12:21:58|
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