MittlereBereich

あやしく意味不明のダークファンタジー&SF。 一応健全(?)

旧作(英訳予定)


Version 3  (2)  (1)


かつて幾つかの白 青を深くする夜 撓いのその極みに枝は折り断たれて
香り はその枝の断面からのものだったのか 立ち止まったそのとき 冬
落葉の重なりが、静かに崩れ風に鳴る音の すべて途絶えて
その記憶として、ぼくは待ち受ける、やがてここに来るものを そしてここから去るものを

(絡みあう枝…虚空にさしのべられながら、互いを求めてもいて…空虚はやがてその外延を朽ち果てさせてゆくのだろうか…衰弱と、そして救済として…)

記憶し、忘れること…雨…風景は遠く煙り、炎天の地鏡を追う駱駝のように、ぼくは歩いているのだろうか…でも、もう求めるものをぼくはもたずに…
砂の音が、聞こえていた
住居の壁が、砂になって崩れてゆく…やがてはこの都市も
きみは笑っているね

(その葉陰…濃く緑の…乾いて、幾たびも陽光に浸食され、この水の器でもあるぼくたちは根元のところで拒まれてもいる。どこにも、ぼくたちの場所はないのかもしれない…)

ぼくも笑うだろう。灰にそそいでゆく雨…水滴は玉になってこぼたれてゆく…灰に拒まれて…でも、樹木の葉は揺れている…風に…そう、風がある…
内に湛えた光の歪みのように、濁る水の流れ…幾条もの、それ自身傷であるかのような
触れること…研ぎ澄まされた金属のように、鋭いその内側に
痛み…痛み ただそれのみの

(感覚は、細分化され微分されて統一にむかうのだろうか…ぼく…そして、きみ…であったことの、かけがえないようにおもわれた傷痕を消してゆきながら…個を超えてゆく感覚として。無数の小さな天使たち…が舞うような金色の埃のなかで)

すこしだけ、顔をあげよう…ただ視線を遠くする、それのみのために…
けれどいま雪崩れてくる風景…街の、人々の、そこに「いる」ぼくたち
いくつもの内側へ…孤立に導かれるように…荒廃へ崩れてゆく混沌から、何かが立ち上がろうとする…いま

(下降する斜線に、刻まれるように疲弊しながら…眠りは死のように求められるだろう…歩き続けるひとたち…丘の上の馬の群から、ぽつりぽつりと置き去りにされる廃馬…その影は長く長くのびてゆく夕暮れ)

朝日にみたされてゆくいくつもの部屋に…微睡む子供たち、その夢
醒めてゆくほかはない日々の遠景
いくつもの壁の眺め…
きみのそのひとつをぼくは知らない
不在であるひとつの壁…

(もう骨格だけになってしまった廃墟のビル…最上階に、窓に使われたガラスが重ねられている。
その積層する一枚一枚に空を映し…崩落の時をまちながら)


水平に飛ぶ雪…春、かつてあった春の遥曳。これから…の春。その未生…ゆるやかに光に、光であるものに裂かれて、ぼくたちは
拡散していくだろう。どこにも属さない、真空の理念として、けれど…
雪の冷たさ…そして、きみの凍えた手の、かすかな
あたたかさ…それだけが不在から漂い離れて
それだけが不在から漂い離れて

(かすかに垂れてゆく草…不意にのしかかるように沈む風…浮揚し同時に切り断たれてゆく草の根…その音。種子…懸架された構造の上部に孤立する象徴から、けれど降りそそぐ銀の雨)

いま、手に受けている雨は、さすかに草のみどりをして…何故?と首を傾けるぼくにきみは言うだろう
…それは野原の、そして街の緑を映してきたから
そうかもしれない、とぼくは思う…けれど、いま、ぼくの何故か震えている手のひらの上で、雨はその緑をさらに淡く透明なものにしてゆく…
どこかに色をさがすことにぼくを誘うまでに

(六角柱に切り取られてゆく光の塔…切られるように薄い透明の壁…飛花である雪の精緻ななにものも含まない六角の稜線。その揺るぎない直線によって示される明確な拒絶…あるいは真空)

緑色に海は揺れていた。夕暮れであるはずの、しかし真昼のような…邪悪な擬態のような光のなかで。水路に入り込む海水…タグボートは赤錆色に塗られて、しかし錆びているわけではなく。ぼくたちはそのタグボートに乗り、遠い鉄骨で組まれた橋を見ている。揺れるデッキのロープを足に感じながら…そして陸に降りる…コンクリートの上の、乾いて細かな砂

(足跡は…獣のようにおさなく散乱して、幾人もののように見えていた。それを吹き払うはずの風は、頭上を吹き、ぼくのところにはおりてこない…足跡…傷痕…迷うことそのものの生み出す傷…いつまでも乾かぬままに、血を滲ませている傷…氷…)

ゆるやかに沈むように浅い緑とその裏の灰白色…そう見ていた路樹は風の鎮まった朝に地上に木漏れ日をひろげている。円形に拡散しようとしながら力尽きて…
そこに落ちている影…影でしかないもの…氷にとりこまれて屈折する光…氷
氷は、うすあおい色をもてるのだろうか

(融けることのない氷を、内側にふかく潜めて…閉ざされた笑いのように…もうどこにもいない…どこにもいないぼくを、呼ぶ声はない 呼ばれないものは、さらに深い不在を漂流するほかはなかった。氷を抱いて…その痛みだけが、かすかに実在を錯覚させてくれるから)


けれども、ぼくは消える…あとかたもなく…だれの記憶にも残らず それはひとつの勝利だ
内側の氷も、ともに消えてゆくのだから
けれども頌詠がきこえる 遠い光 ぼくたちを暖めることのない神
けれどもその無力によって幼子に似た神にむけられた頌詠が

(ぼくは、すこしだけ顔をあげ、あるきはじめる…ゆるやかに尽きてゆくものをみつめて…それがまだ尽きてはいないことをみつめて…氷には、誰にも触れさせないように…さらに深く内側につつんで…やがてそれが雪になる…それが幻想であることを知りながら、それを夢見ることを自分にゆるして、すこしはにかむようにうつむき)

その日、ぼくは雪になるだろう。あなたの髪に触れ、そして消える…ただひとひらの
  1. 2016/11/09(水) 15:06:58|
  2. 未分類
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いそがし

いってもどってしなきゃです
  1. 2016/09/26(月) 14:28:42|
  2. 交感神経日記
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石原吉郎さんの「海を流れる河」から引用

《…あるエッセイで「広島について、どのような発言をする意志ももたない」とのべたことにたいして。その理由をたずねられた。手みじかにいえば、私が広島の目撃者ではないというのが、その第一の理由である。人間は情報によって告発すべきでない。その現場に、はだしで立った者にしか告発は赦されないというのが、私の考え方である。
 第二の理由は、広島の告発、すなわちジェノサイド(大量殺戮)という事実の受け止め方に大きな不安があるということである。私は、広島告発の背後に、「一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに」という発想があることに、つよい反撥と危惧をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実に近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて抜け出したことにおいてではなかったのか。
 「一人や二人」のその一人こそ広島の原点である。年のひとめぐりを待ちかねて、燈籠を水へ流す人たちは、それぞれに一人の魂の行くえを見とどけようと願う人びとではないのか。広島告発はもはや、このような人たちの、このような姿とははっきり無縁である。
 「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」これはイスラエルで、アイヒマンが語ったといわれることばだが、ジェノサイドはただ量の恐怖としてしか告発できない人たちへの、痛烈にして正確な回答だと私は考える
 広島告発について私が考えるもうひとつの疑念は、告発する側はついに死者ではないという事実である。被爆者不在といわれてすでに久しいが、被爆者以前にすでに、死者が不在となっている事実をどうするのか。死者に代わって告発するのだというのかもしれない。だが、「死者に代わる」という不遜をだれがゆるしたのか。死者が生者になり代わるという発想は、死者をとむらう途すら心得ぬ最大の退廃である。
 死者がもし、あの世から告発すべきものがあるとすれば、それは私たちが、いまも生きているという事実である。死者の無念は、その一事をおいてない。死者と生者を和解させるものはなにひとつないという事実を、ことさら私たちは忘れ去っているのではないか。まして私たちは、それらの人びとの死を、ただ数としてしのぐことによって生きのびたといわなければならないのである。
 そしてもし私たちが、まぎれもない生者として、死者から告発されているというのであれば、そのばあいにも私たちは、生者と呼ばれる集団として告発されているのではなく、一人の生者として告発されているのだということを思い知るべきである。しかも一人の死者によって。
 広島を「数において」告発する人びとが、広島に原爆を投下した人とまさに同罪であると断定することに、私はなんの躊躇もない。一人の死を置きさりにしたこと。いまもなお、置きさりにしつづけていること。大量殺戮のなかのひとりの死の重さを抹殺してきたこと。これが、戦後を生きのびた私たちの最大の罪である。量のなかの死ということの私たちの認識は、とおくアイヒマンのそれにおよばぬことを、痛恨をこめて思い知るべきだと私は考える。統計的発想によって告発することの不毛を、まさにアイヒマン自身が告発しているからである。私たちがいましなければならないただひとつのこと、それは大量殺戮のなかのひとりの死者を掘りおこすことである。よしんばそれによって、一人の死に、一人の死をこす重みをついに加ええぬにせよ。
 原点へ置きのこした一人の死者という発想を私に生んだのはいうまでもなく広島ではない。その発想を私にしいたのは、シベリアのラーゲリである。だがこの発想が私にあるかぎり、広島は私に結びつく。そしてそれ以外に、広島と私との接点はない。
 いまこの文章を書いている私に、帰還直後「生きていてよかった」という言葉を聞いたときの、全身の血が逆流するようなおもいが、ふいになままなましくよみがえる。「やすらかにねむってください。あやまちはくりかえしませんから」と書きしるした人が、ついに死者でなかったという事実を、さらに書きしるすべきである。
  1. 2015/10/15(木) 11:39:58|
  2. 交感神経日記
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何草不黄 何日不後

何草不黄 何日不後 
何人不將 經營四方 
何草不玄 何人不矜
哀我征夫 獨爲匪民
匪兕匪虎 率彼曠野
哀我征夫 朝夕不暇
有芃者狐 率彼幽草
有棧之車 行彼周道
  1. 2015/07/06(月) 19:11:00|
  2. 未分類
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水のあやなみ Ⅱの44


いくつもの記憶が、同時に、重なり合うようにして甦り、いま自分が手を包んでいる女性の、目を閉じた顔に重なってゆく

記憶…かつてそこにあった現在

雪の中の車で、眠った記憶。雪はときに烈しく、ときに穏やかに白樺と唐松の林のあいだを流れていた。そして室内の記憶。明るい秋の日の、あるいは5月の雨の記憶。それはそこにあり、なにひとつ失われてはいない

一度でもこの世界にあらわれたこと。そのことは失われない

女性の眠りが深くなったのだろう。穏やかな寝息が聞こえている。その寝息に自分の呼吸をあわせていると、自分にも睡魔がおとずれて来そうだった

…眠ってはいけない

このすべてが消える

それは直感でもあったし、確信でもあった。この穏やかで親密なふたりだけの世界は、眠ったときにあとかたもなく、消える

そして消えたあとには…

不意に、わかったことがある。自分は、この女性の祈るイメージに取り込まれた、この女性の記憶に残る自分であったものの姿に過ぎないのだと。だとすれば、かつてもうひとつの世界で生きていた自分は?その自分といまここにこうしている自分との関係は?なにかが、ふたつの自分の間を環流して繋ぎあっている。女性の眠るその横顔は、おだやかでやすらいでいた。その手をつつむ感触のあたたかさも

意識が遠のき、眠りが灰色のあたたかな煙のように足下から這い上がってくる。手が何かに濡れ始めている。自分は閉じかけた目をひらき、それを見つめようとする 

それは血だった
  1. 2015/04/12(日) 08:37:51|
  2. 水のあやなみ Ⅱ
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